2019年7月18日木曜日

「トンボの産卵から

クレヨン牧師のミニエッセイ

「トンボの産卵から」
 
  先週は一週間にわたって、キャンプ三昧の日々でした。月曜日からの3日間は三原鷺島の海で「こどもキャンプ」、木曜日からの3日間は能勢の山で「青年キャンプ」でした。どちらもたくさんの人数でした。とくに青年キャンプは全国のルーテル教会から参加で、100名を越える若者が結集しました。全国青年担当教職としても大変嬉しいひとときでした。しかし、自分はもうおじさんかな?と自覚しました。なにせそのパワーといったら、2晩徹夜しても平気なのです。様々な問題を真剣に語り合っている姿に、少しルーテル教会の未来の明るさを感じました。
 
 さて、今年の夏はいたるところでトンボの産卵風景をみました。学校のプールで、京橋川で、水たまりで。何とかして自分たちの命を継承しようとしている姿をみて、複雑な心境でもありました。なぜなら、こんなところでは死んでしまうと思われるところに産卵しているのです。とくに学校のプールでみたトンボは哀れでしかたありませんでした。塩素で消毒され、機械で濾過された水ではもう絶望というとこでしょう。ところが、今回のキャンプでもっと哀れなトンボに出会ったのです。それは、学校の体育館の床に必死に産卵しているトンボにであったのです。あまりにも床がピカピカと光っているので、床が水面に見えたのかもしれません。
 
 主イエスは「み言葉の種は、落ちるべき所に落ちたとき初めて生きる」と教えて下さいました。トンボの産卵も産み落とされるべき所に落ちてはじめて、生きると思います。私たちの心はどうでしょうか。主イエスのみ言葉の種が落ちるべき所でしょうか。主イエスに心向けたとき、はじめて落ちるべき所となるのでしょう。