「神様の音を聞く」
クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様の音を聞く」
北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。
落葉焚けばおもしろ、
櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。
萱(かや)の葉はちょろちょろ、
松の葉はぱちぱち。
なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。
教会から出ていろいろなことに忙しくしていると、何か大切なことを忘れてしまうことがあります。忙しい中にいるときは、その時のことしか考えられず、一番いい時を過ごしていると思います。しかし、神様がなぜそこに自分を遣わされたのかを忘れてしまうのです。
全国青年修養会は確かに有意義な時でした。しかし、静かに牧師室で祈っていますと、自分は何のためにそこに遣わされたのかなと考えてしまいました。組織を確立するためか、青年と楽しむためか、仕事の一つだったのか。何か違うような気がしてなりません。心静かに神様の音を聞いてみると、「そうか」とわかったことがあります。それが何かはちょっと言葉にならない音です。