「行動変容がなければ」
ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか
自分は思考方の牧師ではないなと思います。すぐ考えもせず行動する牧師だと思うのです。多くの課題を、これからあれもこれもしていくのでしょうか。もっと大切な「たった一つのこと」がないだろうかと思うのです。牧師として「これのみ」を探したいと願っています。ある本を読んでいますと次のようなことが書いてありました。「これからの親は『何かをする』とかに対してではなく、むしろ『何かをしない』という愛情のために心のエルルギーを使うべきである」。なるほど、なるほどと思いながら、何もしないでいることができないのが私という牧師です。
復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度も読んでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。イエス様の方から先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。その言葉をペトロが意識した、その瞬間に使徒ペトロは誕生したのです。3度目にイエス様から「愛しているか」と聞かれてペトロは「悲しくなった」と聖書は記しています。悲しくなるほど愛されているのがわかったのです。
鎌田實さんが脳卒中のことを講演した時のことです。塩が悪いという話をされたそうです。みんないい話を聞いたといっていたが、講演後すぐに野沢菜が大量にでてきたといいます。その塩分が悪いと話していたのに。人の習慣をかえるのは難しいといわれていました。その記事の中で、次のように言われています。「行動変容を起こすには、まずその人が『これを改めよう』とはっきり意識しないとダメです。テレビ番組を見るだけでは、行動変容は起きにくいですね。何となくいいと思っても、番組が終われば、忘れてしまう。行動変容には結びつきません」。続けて「顔と顔を突き合わせて直接聞いた話とか、本を読んでいて線を引いた内容のほうが、行動変容を起こす力を持っています。僕は新聞を読んでる時、大事なところに印を付けたり、切り抜きをしたりして、忘れないようにする習慣があるんです。そのようにしっかり意識付けすることがポイントです」と。私たちも毎日聖書のみ言葉を聞いていますが、イエス様に愛されているということを意識できるかということです。
イエス様の大きさは、計り知ることができません。その大きさはペトロに「愛しているか」というみ言葉に集約されているように思います。その大きさに触れたペトロは「悲しくなった」のです。イエス様の愛を意識したのです。わかったのです。心に刻んだのです。こんなに自分を愛しておられる方がいてくださるという胸を打たれる悲しさで、イエス様の本当の愛を知ったのでしょう。彼が殉教するまで宣教した行動変容はここからきています。