2018年12月5日水曜日

「判断基準は神様のみ言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「判断基準は神様のみ言葉」

箴言 9:10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。震災のおこるずっと前からです。神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。その心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。それが知恵だといえます。

箴言は知恵とは何かを考えさせます。しかし、その知恵がどこからでてきたものかは重要です。今回の知恵も、女性として人格化された知恵が、未熟な若い男を招く話になっています。本当の知恵とは何か、それを見極めることは大切なことです。

小学校4年生の道徳の授業参観をしたことがあります。授業内容は「麻薬の危険から身を守る」ということでした。興味本位で手を出したりしないようにということでした。内容はどんな麻薬があるか、麻薬に犯されると人間はどうなっていくかなど、分かりやすいものでした。そして最後に先生が麻薬を使うことに多数決をとられたのです。なぜ麻薬は恐ろしいか、使用してはいけないかを話してきて最後は多数決で決定という授業に疑問をもちました。判断の基準はどこにあるのだろうと思ったのです。

箴言は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」と教えています。私たちに与えられている知恵は神様からくるものです。その知恵の根拠は聖なる神様を知ることから始まり、それが判断基準となっていくのです。分別の初めもすべては神様から、そして神様とはその御言葉にあります。