クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様のものさし」
子どもたちの感性には、大人をあっと言わ せるものがあります。子育て中の私などは、毎日が気づきの時ですが・・・。
その子どもの言葉に、次ぎのようなものがあります。
「運動場で遊ぶとき、
みんなは、せまいせまいと、
文句をいう。
でも、運動場の掃除をするとき、
みんなは、ひろい、ひろいと、
文句をいう」。
運動場の大きさは変わらないのに、人の置かれた状況や、考え、心の持ち方でせまくもひろくもなる。子どもにとっては、不思議なことなのでしょう。
私たちは「自分の物差し」を持っています。それはそれでいいことですが、その物差しを絶対にしたり、その物差しは「みんなの物差しと同じ」だと考えてしまうものです。
しかし、私たちの「物差し」は絶対のものでしょうか。人間の物差しほどいいかげんなものはありません。そのことを子どもの言葉が教えてくれているのでしょう。
ここまでくると何を伝えたいかはお分かりだと思います。私たちには、人間の物差しではない、「別の物差し」が必要なのです。それは、神様の物差しです。私たちクリスチャンにとっては、キリストのみ言葉だといえます。キリストがなにを基準にしておられるのか、知ることでもあります。
人間の物差しは、100人いれば100の物 差しがあります。そして、みんな自分の物差しが正しいと信じています。しかし、この世界で絶対なのは神様の物差しだけなのです。
ある小説には次のように書いてあります。
相手にも正義があると考えない限り、話し合いなどできるものではない」。
自分だけが正義であるはずはない。正義は神様のものだからです。