2018年12月19日水曜日

「共にいることの介入」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「共にいることの介入」

マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。

本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。

その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから」を読むと、本当は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このヨセフから」と書かねばならないところです。しかし、ここにクリスマスの出来事の意味が記されています。

クリスマスは、神様が人間の系図に「介入」された出来事です。私たちの救いのために、介入された出来事なのです。「ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の深い愛のゆえに、私たちの人生に介入される。共にいてくださるという介入なのです。今週もクリスマスの意味を考えながら、過ごしてまいりましょう。