「自分を愛するのは」
ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。
イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。
最近FMラジオを聞いています。先週はNHK/FMから永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではないのです。ラジオからの一言でああでもない、こうでもないと考えてみました。「神様は愛するお方だ!」と知ったときさわやかな感じがしました。
自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。