2018年11月15日木曜日

「神聖さを感じる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神聖さを感じる」
 
 あるご婦人が「牧師職の神聖さを感じました」と話してくださいました。というのも、ある主日の礼拝説教の時、牧師がせき込んでおられたので水を持っていったそうです。すると、水を差し出した手がしびれて、何かに打たれたようだったとのこと。それからどうやって自分の席に帰ったかわからないと言われました。その体験から「牧師職の神聖さを感じました」といわれたのです。
 
 同じように、先週のことでした。初めて平岡博兄の職場(光市民病院)に行きました。白衣姿の平岡兄をみたとき、医者としての神聖さを感じました。しかし、それは医者だからということではありません。小泉真兄を銀行にお訪ねしたときも、佐伯里英子姉の職場を訪問したときも、主婦の仕事をしている後ろ姿にも「神聖さ」を感じるのです。神様がその方に与えられた仕事をしている時、そこに神聖さを感じるのだと思います。
 
 牧師を考える時、「召命」という言葉がでてきます。しかしそれは牧師に限ったことでなく、全ての職業に神様からの召命があるのです。その召命にそって働いている人間に、神様の力がやどっているのでしょう。そして、神様に用いられて働くそのことが宣教なのだと言えます。
 
 自分の与えられた働きを、祈りつつ行うこと。簡単なようでとても大変なことだといえます。いまの仕事が、神様から与えられたものだと信じている人はとても幸せだといえます。またそこに神聖さがあるのでしょう。