2019年11月30日土曜日

明日は礼拝です


説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひお越しください。

2019年11月29日金曜日

クリスマスは教会へ

阿久根教会クリスマス礼拝
12月22日(日)10:30~
礼拝堂にて

2019年11月28日木曜日

「優しさの配慮」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「優しさの配慮」
 
 広島教会の結婚式がテレビで紹介されました。といっても新郎新婦の希望で式の最中は映されませんでした。それでは何を・・・、実は階段でのフラワーシャワーが放映されたらしいのです。その後、結婚式の問い合わせが急に増えました。これが式中の模様が放映されていたらどうなっていたでしょうか。
 
  広島教会の長い階段は、はじめから計画して作られたものではありません。しかし、神様はそれを用いてくださっているのだと思います。結婚式を挙げられる方々のあこがれのフラワーシャワーとなっています。きっと長い階段を降りながら気分はシンデレラなのかもしれません。
 
  先週結婚式を挙げられたお二人も、フラワーシャワーを喜んでおられました。しかし、この二人のはちょっと違ったシャワーだったのです。実は花びらを用意された花やさんがお二人に聞かれたそうです。「普通はライスシャワーなので、花びらにお米を入れますか?」と。するとお嫁さんが即座に答えられたそうです。「彼の実家は農家でお米を作っています。お米を踏むわけにはいきません」と。それを聞いた花やさんは、この方々のためには最善をつくそうと思ったそうです。とても清々しい話でした。
 
  思いやりとは何かなと考えることがあります。ちょっとしたことなのでしょう。ただそのちょっとしたことが難しいのです。優しさの配慮かもしれません。自分のことばかり考えるのではなく、どれだけ多くの人のことを考えることができるかかもしれません。
 
  私たちの主イエスは、最後の最後まで配慮された方でした。十字架の上でなおも、母マリアと弟子達に配慮し、同じ十字架にかかっている強盗にも配慮されました。「あなたは今日私といっしょに天国にいる」素晴らしいご配慮でした。

2019年11月27日水曜日

「大切であるとわかる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「大切であるとわかる」

ルカ 15:6 人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。

東日本大震災救援活動の時、関西にある保育所の園長さん2名をつれて、石巻市北上にある相川保育園を訪問してきました。阪神・淡路大震災を経験された園と、東日本大震災で被災された相川保育園をつなぐ役割を果たしました。子どもたちの命、防災、心のケアについて熱心に語られていました。相川保育園の玄関には7段ひな人形が飾られていました。趣のあるしっかりとしたものです。相川保育園の被災のことを新聞で知った関西の老夫婦が、長年大切にしてこられたひな人形を寄贈してくださったのです。ひな人形から感じられる雰囲気でしょうか、これまで大切にされてきた様子を感じました。子どもたちもしっかり眺めて大切にしているそうです。きっと人形から、大切にされてきたことを感じ取っているのでしょうと、園長先生が語られていました。

イエス様はルカによる福音書で「見失った」たとえを3つ語られました。「見失った羊」「見失った銀貨」「見失った息子(放蕩息子)」の話です。これらの話に共通することは、失われたものが発見されたときの喜びの大きさです。その喜びの大きさによって、それがいかに大切なものであるかを知るというのです。失くしたものの大切さは、再び得たときにわかるものです。

熊本地震支援活動も、新しい段階にはいりつつあります。益城などはまだ緊急支援です。しかし、宮地、一の宮の阿蘇は落ち着いて今後は自立支援に変わっていきます。この自立支援へ移行するのが一番大変です。ここでうまくいかなければ、これまでも、今後もかなり生活支援が難しくなると東北で学びました。その中で被災地の子どもたちのために、阿蘇YMCA尾ヶ石保育園では森のブックカフェができています。自然災害でうけた心の傷は、自然が癒す。思いっきり自然とあそんで、森のブックカフェでひとやすみ。一人の魂を大切にするブックカフェです。

イエス様は、見失った羊を見つけた羊飼いは人々を集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うと教えられました。羊飼いにとって1匹の羊は、大切なかけがえのない存在です。それがわかるように羊飼いは人々に示すと言われました。大切にされていることがわかるということは素晴らしいことです。

2019年11月26日火曜日

「ケンカはイヤです」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「ケンカはイヤです」
 
 若手教職(卒業して15年以内)の退集会がありました。主イエスが退いて祈られたことから、牧師たちの修養会を退修会といいます。テーマは「職務と本音」というものでした。その中で印象深く聞いたことは、「もっと牧師は家族・家庭を大切にしよう。家族のために時間をさこう」というものでした。家庭を大切にするということはわかりますが、それが若手教職の本音だとすればなんだか寂しく思いました。
 
 もうひとつ残念だったことは、「みんな本音をだしあってケンカしよう」「はっきりいってケンカうってます」などという表現が、一部の牧師たちからでてきたことです。何のために牧師たちがケンカする必要があるのでしょうか。ケンカすることによって新しい関係がうまれ、お互いがよく知り合えると弁解していましたが、そうは思いません。お互いケンカしなければ仲良くなれない牧師たちってどんな存在なのか。考えこんでしまいました。ある若い牧師は「僕はケンカは嫌いです。牧師の中からケンカしましょう、ケンカうってますという言葉がでてきて寂しいです」と言いました。私も心から寂しく感じました。
 
 なぜ寂しく感じたのか考えてみました。やっぱり、神様の平安に反するからだと思います。意見の違いはあってもいいのです。しかし、そこには信頼というものがあるからです。お互いの人間を信頼するのではなく、私たちの間におられる主を信頼できるかだといえます。若い牧師たちに、「私たちは同じ主イエスに召されている」という信頼があるでしょうか。そこは語られなく、ケンカしましょうでは分裂を生むばかりだと感じました。
 
 やっぱり、ケンカはいやですね。どうしても「お互い愛し合いなさい」という、主イエスの命令に反すると思います。主の平安のなかで過ごして行きたいものです。

2019年11月25日月曜日

「はじまりの視点」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「はじまりの視点」

1ヨハネ  4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。

海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。

 ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。

 教会では臨床宗教師と行政の話し合いが持たれました。現在被災地にカルトが入ってきているとのことでした。キリスト教や仏教の顔をしながら、支援品やお金をばらまいているようです。人の痛み苦しみにつけ込んで、最終的には人を惑わす道に引きずり込もうとしているのかもしれません。私たち臨床宗教師は公共性をもちながら活動しています。公共性と言う中には「惑わす」と言うこといっさいありません。宣教を目的としない宗教者とは考えられませんが、それこそが公共性であり惑わさない寄り添いだと言えます。

 ヨハネは「真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることによると言うのです。神様のみ言葉を始まりの点にすることが、惑わされることがないのです。生活の中における中心を神様のみ言葉にするとき、私たちの生活はより豊かに祝福されていくのです。

2019年11月24日日曜日

きままま休日・初めてのシュラスコ!

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初めてシュラスコを食べに行きました。
どんどん出てきます。さすがにおなか一杯。
ブラジル料理・串焼き肉などをそいで食べさせてくれました。

2019年11月23日土曜日

明日は礼拝です


TV中継礼拝説教者:立野泰博牧師(主任)
どうぞお越しください。お待ちしています。

2019年11月22日金曜日

阿久根教会特別礼拝コンサート



阿久根教会の礼拝です。
年一回の特別音楽礼拝、午後はコンサートが行われました。
チェンバロとヴィオラダガンバの演奏でした。
礼拝堂はまた新しくなりました。ステンドシートが貼られて。素敵です。

2019年11月21日木曜日

「神様の配慮の大きさ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の配慮の大きさ」
 
 私という一人の人間が生きていくうえで、どれくらいの配慮をいただいているのでしょうか。家族や隣人をはじめ、神様からの配慮をどのくらい知っているか・・・。と考えさせられる時を与えられました。
 
 ここ2ヶ月ほどに、東京へ3回、北海道へ1回行くことができました。最近は時間的に楽なような感じがするので、飛行機を利用しています。正確に時間をはかれば「のぞみ」でも同じようですが、やっぱり飛行機は早いというイメージがあります。先週も東京からの始発便で帰ってきました。その途中、機長から次ぎのようなアナウンスがながれました。
 
 「この飛行機の高度は○○フィート、速さは時速○○キロです。ただいま富士山が右下に見えております。ところで、この飛行機には燃料がドラム缶にして100本分が積み込まれています。その燃料を1分間にドラム缶2本分を消費しながら広島へ向かいます・・・・」
 
 なにげなく聴いていまして、はっとさせられました。この乗客を広島まで運ぶためにそれだけの消費があるのか。1分間にドラム缶2本分のエネルギーが必要とされていることに驚きを感じたのです。
 
 私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。

2019年11月20日水曜日

「主が懲らしめて」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「主が懲らしめて」
 
ユダ 1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
ある宗教団体が「この熊本地震は神様の裁きである」と言いふらしていると聞きました。またか~と残念で仕方ありません。またキリスト教の中でも「いまこそ伝道のチャンス」と叫んでいる教会もあります。その声を聞く度に、今はそんなことを言っている時ではなく、私の前におられる被災者の方々にどのように寄り添うかだと言えます。そのような働きをとおして、自分を生かしてくださっているイエス様を知っていただくことです。み言葉に立って仕えることしかないのです。何かイエス様のみ言葉を間違って受け取っておられると思います。
ユダの手紙は、イエス様の弟であるユダが書いたという体裁をとっている手紙です。しかし本来はそうではなく、手紙の権威づけのために名前が用いられています。内容は異なる信仰理解を教える「論敵」を退けること。読者がその教えに影響されないことを目的としています。間違った教えに対して、強く警告しているのです。
「被災地支援活動におけるキリスト教の傲慢」という声を聞きました。結局私たちがキリスト教メディアを通して聞くのは「今回もクリスチャンの支援活動は素晴らしかった」と言うことです。「祈りとみ言葉に立った活動ができた」という報告があいます。本当にそうなんでしょうか。人の痛み苦しみに寄り添った時に「素晴らしい活動だった」で終わらせていいのかなと思うのです。それは自己満億ではないのか。本当にやらねばならないことができたか。素晴らしい活動なんていらない。寄り添うことが大切じゃないのかと。確かにクリスチャンの方々のご奉仕には心から感動します。だからこそ「活動は素晴らしかった」で終わるのでなく、何もできませんでしたという謙虚さがほしいのです。神様の前に私たちは何もできない存在だからです。
神様はすべてをご存知です。いま起こっていることも、何が必要かも。だから神様に信頼して、今やるべきことを淡々としていくことです。大天使ミカエルは「あえてののしって相手も裁こうとせず」と書かれています。そのことは神様にお任せされたのでしょう。やるべきことを何か、足元をしっかり見据えて災害救援に当たりたいと願っています。

2019年11月19日火曜日

「なにも考えずに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なにも考えずに」
 
 札幌の新千歳空港は、とても素敵な空港です。これまでの中では、おみやげ屋さんついては1番だと思います。なぜか分かりませんが、だいたい4時間~5時間この空港で過ごすことが多いです。それでも飽きないから不思議です。こんなときは牧師にとってもったいない位の読書タイムとなります。
 
 さて今回も空港の中の紀ノ国屋書店で文庫本を2冊買いました。私のペースでは、ちょうど2冊を読み終えると搭乗時間になります。こんなときは何も考えずに読める本が最高です。今回も推理小説を買いました。いきなり目についたのは、最近直木賞をとった、宮部みゆきさんの本でした。さすが、時間を忘れて読みました。いままでの推理小説とどこか違うものを感じました。それが何かわからないのです。
 
 どこか違うといえば、最近長女のクラスは5年1組日記というのを毎日クラス全員で書いています。各時間に分けられて担当を決め日記風に1日をまとめているのです。昨日のはじまりは、「学校にくるまで・・・僕は今日何も考えずに学校へきました。とちゅうで犬のうんちがありました。くさかったです。おわり」と書いてありました。どこか違うのだけれど、なんだかほのぼのとしてしまいました。朝はやくから、今日はあれをしよう、これをしよう、これをしなければ、人生とは何か・・・と考えるより、何も考えず歩くのもいいなあと。そこに犬のうんちをみて、素直にくさかったといえることに、おかしいのだけれどよかったねと行ってあげたい気分でした。
 
 信仰生活もいろいろと考えて悩むより、なにも考えずに「主に感謝」と言える時間をつくってみたいものです。考えても、考えなくても救われた私には変わりがないのですから。

2019年11月18日月曜日

「聖なる香油」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「主が懲らしめて」

ユダ 1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。

ある宗教団体が「この熊本地震は神様の裁きである」と言いふらしていると聞きました。またか~と残念で仕方ありません。またキリスト教の中でも「いまこそ伝道のチャンス」と叫んでいる教会もあります。その声を聞く度に、今はそんなことを言っている時ではなく、私の前におられる被災者の方々にどのように寄り添うかだと言えます。そのような働きをとおして、自分を生かしてくださっているイエス様を知っていただくことです。み言葉に立って仕えることしかないのです。何かイエス様のみ言葉を間違って受け取っておられると思います。

ユダの手紙は、イエス様の弟であるユダが書いたという体裁をとっている手紙です。しかし本来はそうではなく、手紙の権威づけのために名前が用いられています。内容は異なる信仰理解を教える「論敵」を退けること。読者がその教えに影響されないことを目的としています。間違った教えに対して、強く警告しているのです。

「被災地支援活動におけるキリスト教の傲慢」という声を聞きました。結局私たちがキリスト教メディアを通して聞くのは「今回もクリスチャンの支援活動は素晴らしかった」と言うことです。「祈りとみ言葉に立った活動ができた」という報告があいます。本当にそうなんでしょうか。人の痛み苦しみに寄り添った時に「素晴らしい活動だった」で終わらせていいのかなと思うのです。それは自己満億ではないのか。本当にやらねばならないことができたか。素晴らしい活動なんていらない。寄り添うことが大切じゃないのかと。確かにクリスチャンの方々のご奉仕には心から感動します。だからこそ「活動は素晴らしかった」で終わるのでなく、何もできませんでしたという謙虚さがほしいのです。神様の前に私たちは何もできない存在だからです。

神様はすべてをご存知です。いま起こっていることも、何が必要かも。だから神様に信頼して、今やるべきことを淡々としていくことです。大天使ミカエルは「あえてののしって相手も裁こうとせず」と書かれています。そのことは神様にお任せされたのでしょう。やるべきことを何か、足元をしっかり見据えて災害救援に当たりたいと願っています。

2019年11月17日日曜日

気ままな休日・ジャガイモはこれでしょ!


北海道ジャガイモの極めつけは
ジャーマンポテトですよね!
ビールにあうあう!

2019年11月16日土曜日

礼拝へどうぞ

説教者:立野泰博牧師(主任教師)
どなたでも、お待ちしています。
礼拝の中でチェンバロ演奏がございます。
午後からはコンサートです。

2019年11月15日金曜日

2019年11月14日木曜日

「神様のぬくもり」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のぬくもり」
 
  いつも週報をつくるときは、FMラジオをききながら作成します。パソコンの画面を見つめながらの作業なので、音楽があったほうが作業が進むのです。しかし、今回の週報はノリがよくつくれました。ある方がCDを貸してくださったからです。そのCDとは「宇多田ヒカルFirst LOVE」というものです。あの「だんご3兄弟」もよせつけない勢いで売れているCDです。16歳の彼女が作詞作曲したのだと思うと、音楽のことはわからない私でも驚いてしまいます。その音は心地よいのです。
 
 その彼女の作品の中に「Automatic」というのがあり、次のような歌詞をみつけました。
 
      It's automatic
 
      アクセスしてみると
 
      映るcomputer screenの中
 
      チカチカしてる文字(I don't know why
 
      手をあててみると
 
      I feel so warm
 
 パソコンの画面に手をあててみると、温もりを感じるいう表現が、なんとも寂しく感じるのは私だけでしょうか。そのような恋心を歌ったものでしょうが、人は人の温もりを求めているのだと思います。やっぱり、パソコンでのメールだけでは人は人を感じないのでしょう。神様がパソコンのスクリーンのなかにおられないのは、私たちにその温もりを与えてくださるためなのです。いつも共にいてくださる。

2019年11月13日水曜日

「はじめ・おわり」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「はじめ・おわり」

 ヨハネ黙示録 1:8 わたしはアルファであり、オメガである。

東日本大震災で被災者の方が津波の全貌を知ったのはかなり時間がたってからだそうです。携帯電話のワンセグでテレビが見えたもののすぐに通信不能になったそうです。目の前の風景で大変なことになったと思ったが、石巻市街だけのことだと思ったそうです。しかしラジオからの情報で、津波が到達した地点を聞き、これはただごとではないと感じた。あそこまで来たということは、家族はだめかもしれないと。目の前の状況とラジオの情報、そしてなにもわからない3日間。その後わかったことに言葉を失くしたと話してくださいました。個を知ること、全体を知ること。それがつながるとき大震災被害をどのように受け取っていいのか、いまもまだわからないといわれました。

ヨハネの黙示録では、神様が自分は何者であるかを神様自身が自己宣伝をする形をとっています。神様がこの歴史の支配者であり、すべてを知っておられる方であると宣言しています。「アルファ」であり「オメガ」であるとは、ギリシャ語のアルファベットの初めと最後の文字のことです。つまり永遠という意味です。すべてを知っておられる方が神様だというのです。

熊本地震を振り返っています。ところが、その時のことを思い出そうとしても思い出せないという言葉を聞きます。なぜか思い出せないと。そういえば自分もそうかもしれません。なぜ思い出せないのか。2回もあった地震なのに。きっと思い出したくないという心の現れのようにも思います。しかし思い出せなくても、いま何があったかを知るのが支援活動の一歩かもしれません。被災者が支援活動する時の難しさはそこにあるかもしれないのです。それでも、あったことは確かなのです。

人間にはわからないことはたくさんあります。私に起こっていることの全貌も見えていないものです。しかし、神様はすべてを知っておられる。全体をみて個をみておられる。そのような存在である神様が共に寄り添っておられる奇跡を思います。

2019年11月12日火曜日

「自分の母も聖母」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自分の母も聖母」
 
 今日は母の日です。自分の母に感謝するのは当然ですが、世界中の母、すでに天に召された母にも感謝したいと思います。主イエスの母マリアにも当然のことながら感謝をします。
 
 松山のビジネスホテルに泊まったときのことでした。そのホテルには最上階に展望浴場の温泉があり、それは素晴らしいながめなのです。ところがひとつだけ困ったことがあります。じつは、お風呂の正面にカトリック教会があり、その教会塔の先端にマリア像があるのです。つまり、主イエスの母マリアが両手を広げてこっちを見ていてくださるのです。なんとも恥ずかしいという気持ちにさせられます。
 
 マリア像といえば、いつでも八頭身の美人像です。しかも真っ白。だれでもがあこがれる体型と色なのだそうです。しかし、実際の母マリアはどうだったでしょうか。主イエスからは「わたしと何のかかわりがあるか」と言われたり、十字架の死のまえに胸を剣で差しつかれる母でした。きっと、その精神はたくましく、ひたすら主イエスに従うのみの女性だったと思います。ごつごつした手足と、しっかりとした体型だっかかも。それでいて繊細な母だったのかもしれません。そのようなマリアに私は心をひかれるのですが。
 
 こう書きながら、なあんだ自分の母のことを書いているんだなと思いました。きっと、誰にとっても自分の母が一番の母であり、女性であると思います。別に八頭身でなくても、色が白くなくてもいいのです。母は母であればそれでいいと思います。主イエスの母マリアも結局、母マリアだったそれだけなのです。感謝。

2019年11月11日月曜日

「まず相手を認める」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「まず相手を認める」

マタイ  7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

精神分析医の言葉に「我々は他者の間違った行動を責め、良い行動は認めようとしないものである」があります。これを分析してみると、他者を否定的に見れば、優越感をもてるからだと言えます。しかし、精神分析医は「人が自分自身を健全で現実的な眼差しで見つめるようになれば、否定的な記憶は薄れる」と言います。まず自分を見ることから始めなければ、他者を認めることはできません。これができないから話し合いによって問題解決できないのです。よりよい解決案を見つけるには、まず相手を認めることからです。そこではじめて人と人との関係ができます。

イエス様は「人を裁くな」というテーマで3つの話をされました。イエス様が教えられた「人を裁くな」ということは、律法に対する新しい解釈でもあります。律法の働きは、つねに人が人を正しく裁くことです。イエス様は、人が裁いてはならないと言われます。なぜなら、人を裁くことができるは神様の権限でだからです。人が人を裁くときには、すでに人間関係が壊れていることを意味しています。

「またか」という言葉が聞こえてきました。熊本震災支援活動は牧師のスタンドプレーだということのようです。これが同じように被災地で支援活動している人からもその声が聞こえてくるのは残念です。スタンドプレーでも、奉仕活動でも、何と言われても結構です。ただ同じく支援活動をしているのですから、批判をして足を引っ張らないことだと思います。そうしないと、本当に人々に寄り添っているキリスト者を傷つけることになります。組織ではなく、一人で支援活動しているキリスト者に出会うたびに、その方々が身内から傷つけられていることが残念です。

イエス様は「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われました。自分を知ることの難しさを教えておられます。相手を自分の目で見る前に、自分自身を神様の目で見ることが求められます。それができれば、はじめて相手の目にあるおが屑の意味もわかります。お互いにそれができれば、何か問題が起こったときに解決する道を与えられるはずです。

2019年11月10日日曜日

きままま休日・ジャガイモのペペロンチーノ

ジャガイモでペペロンチーノ
シンプルでかなりおいしいです。
中華料理屋さんの前菜ででてきました!

2019年11月9日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どなたでも、お待ちしています。

2019年11月8日金曜日

2019年11月7日木曜日

「黄金に輝く十字架」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「黄金に輝く十字架」
 
  私たちの教会は、素晴らしい十字架を持っています。ただ眺めるだけでも、訴えてくるものがあります。外国からお客さんが旅行で立ち寄られるたびに、感動して帰られます。結婚式で多くの方々がこの十字架の前に立ちます。結婚する二人だけでなく、参加者もこの十字架と向かい合うことになります。ただそれだけでも素晴らしい伝道だといつも思います。この十字架をバックにして御言葉を語ることのできるのは、牧師としての最高の恵みだと確信しています。聖卓の前に立ちこの十字架を見上げるたびに、牧師として召されたことの奇跡を感じざるをえません。
 
 さて、この十字架が黄金色に輝くときがあります。それが今の季節です。太陽の関係だと思いますが、この時期にだけ上の明かりとりから日光が差し込んでくるのです。ちょうど9時~10時の間です。斜め45度くらいのところから、一直線に太陽が差し込んできて十字架にあたります。この太陽によって本当に黄金色に輝くのです。このことに気がついたのは今年が初めてでした。いつもみているはずなのに、見過ごしてしまうものです。もしかしたら、この2・3日だけの晴れた日に限るのかもしれません。この時間は牧師個人の祈りのときですので、最高の祝福を得ていることになります。
 
 主イエスは山上で変貌されたとあります。あのとき弟子達は神の国のさきどり、神の国に出会いました。黄金に輝く十字架を前にしたとき、あに山上の変貌の神の国に思いをはせました。ここで私たちもまた主イエスに出会い、その主イエスが必ず神の国に導いてくださるのだと。この出会いも一瞬のものでしょうね。

2019年11月6日水曜日

「深い悲しみがある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「深い悲しみがある」

ローマ  9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。

宮城県にあった大きな避難所には、最高で700名の被災者がおられました。避難所になった施設の館長さんは不眠不休で人々のお世話をされていました。最後の1家族が仮設に移ったのは10月でしたので、その間ずっと支援活動をされてきたのです。正月になり派遣牧師が挨拶にいかれました。「おめでとう」の言葉に、館長さんは「何もおめでたくはない正月だ」といって、自分の23歳の一人息子が津波に流されてまだみつかってないことを話されたそうです。じつは誰もがはじめて聞くことでした。館長さんは自分の使命は最後の1家族が無事に仮設に移るまで見とどけることと言われていました。自分の苦しみ、悲しみはそっと置いておかれたのです。

パウロは信仰による義を明らかにしています。それによって神様の民としての栄光が約束されることが明らかになったと教えています。しかし、パウロの中にはイスラエルの同朋たちのことで、深い悲しみ、絶え間ない痛みがあるというのです。それは個人的なもののように聞こえますが、そうではありません。神様との関係における事柄についてのことです。

被災地支援活動をしている被災者は、誰もが深い悲しみを持っています。その悲しみの表現はいろいろあります。しかし、被災支援を語るときにはその深い悲しみ身を置いたところからしか語れません。見ないようにしたり、無かったことにしたり、誤魔化したり。悲しみを避けて支援活動を続けようとします。しかしそれでは途中で挫折してしまいます。自分の中の本当の痛み苦しみに身を置いたときにでてくる勇気と希望が被災者支援を支えていく力となるのです。

パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」といいます。その中で神様の使命に生きることによって、神様の義を明らかにしているのです。深い悲しみ、痛みの中にあっても神様が約束してくださった義によって使命をはたしていくしかないのです。

2019年11月5日火曜日

「神様の計画の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の計画の中で」
 
 神田家の家庭集会が始まりました。家庭集会の再開を願っていましたので、とても嬉しいひとときでした。海沿いの道をワゴン車にのって、ピクニック気分で行ってきました。しかし、あんなに美しい海でさえ埋め立て工事をしていて、なんだか複雑な思いもいたしました。
 
 「この人たちは、どんな計画を持っているのだろうか」と思うことはたくさんあります。たしかエルサレムのホーリーランドホテルの近くに、総ガラス張りのホテルがありました。アメリカ資本のホテルでしたが、開店とともに休業したホテルなのだそうです。なぜなら、総ガラス張りだからです。エルサレムといえば、そう砂漠地帯の一画にあります。雨期はまだしも、乾期ともなれば灼熱の太陽にさらされるのです。こんなところにガラス張りだと、ホテルの中はものすごい温室というよりサウナ状態になるのです。はじめからわかりそうなものをと思いますが、どんな計画だったのかなと考えずにはおれません。
 
 主イエスは聖書の中で「あなたがのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者があるだろうか」といわれました。じっくり考えてみるでしょうと言われたのでしょう。
 
 そうはいっても、私たちの人生は「じっくり考えて」とはいかないもののようです。あわてんぼう、うっかりやの自分をみるとき、同じことかもしれません。それでも、神様の守りのうちに、神様の計画どおりに生かされているのです。これはもう感謝しかないようです。神様の計画の中で生きている私です。

2019年11月4日月曜日

「子孫はわかれて」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「子孫はわかれて」

創世 10:31 これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。

熊本震災救援活動のはじめから「心のケア」「傾聴ボランティア」が必要であると言う声を多くきいています。また、すでに多くの団体、個人が現場に入り活動をされています。とくに5月終わりごろから、各宗教団体、NPO、諸団体が「心のケア」ボランティア登録し、その数は急増しています。とても大切な活動だと思います。ただ傾聴を考えると、熊本の田舎は方言が難しいということです。ある時は外国語に聞こえることさえあります。そのような中で傾聴して寄り添っていくことの大変さを思います。そこに生きておられる方の地域、言語、コミュニティをよく理解して活動を進めなければなりません。それには共に汗を流すことから信頼を得て、心を通わせることの重要性を感じるのです。

洪水によってノアとその家族以外、全ての民は滅ぼされてしまいました。洪水のあとノアの息子たち3名の名前が記されています。セム、ハム、ヤフェトです。ここからまた新しい系図がはじまりました。子孫が与えられ、各地方に散っていき、民族を作り上げていったと聖書は記しています。もとをただせばノアからでてきた子孫であり、さかのぼれば神様が創造された人からの流れが続いているのです。ところがすでに「氏族」「言語」「地域」「民族」というグループに分けられており、ひとつであったものが分けられていく様子も示されています。

いま「自立支援」が叫ばれています。そろそろ自立の道を模索しなければ、依存が強くなっていくからです。すぐに自立しなさいではなく、徐々に自分たちで自立の道を見出していけるように援助することです。しかし自立ということは、バラバラになることも意味します。苦難を共にしてきた集団が、分かれてまた新しい集団をつくることでもあります。結局自立していくには何が必要なのか。やっぱりコミュニティだと思います。同じ一つのコミュニィであることの認識が人を支えていくのではと思います。

ノアの子孫も「氏族」「言語」「民族」といったように分かれて系図にまとめられています。そのことの意味は、それぞれの個性があり、みな同じではないということでしょう。ただひとつ同じことは、全てノアからでている。遡ると神様が創造された人からでたということです。最終的にはここで一致できるという奇跡があるのだと思います。

2019年11月3日日曜日

きままな休日・揚げコロッケ


コロッケって案外つくるのは面倒ですよね。
衣がね~そんな時にはあげの中に具を入れてっとあげる。
これおいしいですよ!

2019年11月2日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひお越しください!