「いじめはないの」
「今年の9月『モーニング娘。』に、後藤真希という14歳の少女が新しく加入しました」と書いたところで、この文章をどれだけの方が理解できるかなと考えてしまいました。たぶん、教会に集うほとんどの方が「それ何のこと」と思われることでしょう。つまりこれは芸能ネタなのです。どうでもいいことかもしれません。ただそれでは話しが続きませんので説明します。いわゆる若い7人の女性歌手グループに、新しくメンバーが加入し、それが14歳の少女だったのです。
さて、本題はここからです。この新しくなった『モーニング娘。』が、いろんな番組に出演したときのこと、どの司会者も同じ質問をしたのです。「新しく加わって、いじめはありませんでしたか」と。どの番組でも同じ。いまでも同じ質問もするのです。他に聞くことはないのかなとも思いますが、本当はテレビを観ている私たちも含め多くの人たちが実は「いじめ」を期待していると思えたのです。本来「いじめ」はあってはならないのだけれど、「いじめ」があったほうが面白いなあと心の奥底で思っている自分がここにいることに気がついたのです。この不思議な心模様を誰かが操っている。ワイドショーなどの作り方もそうかなとゾッとしました。
人間の心というのは、いつも素晴らしいことだけを考えているのではありません。むしろ、罪深いことを考えているほうが多いのかもしれません。そのようなときに、主の十字架は悔い改めを私たちに迫るものとして現れます。その罪深さを気付かせてくれるのです。主イエスの十字架を通して判断せねばならないことがなんと多いことでしょうか。毎日流れてくるニュースを聞きながら、ふとそのようなことを思いました。主イエスはいつもそばにいて、導いてくださることを信じつつ。