2020年3月16日月曜日

「バイブル・手本」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「バイブル・手本」
テモテ  1:16 わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
電車の広告などで「~のバイブル」という表現をみます。「ダイエットのバイブル」「綺麗になるバイブル」「安心して生きるバイブル」などです。この「~バイブル」と言う表現をみるたびに、人々はこれをどのように受け取っているのか。理解しているのかと思います。ネット辞書では、バイブルとはまず「聖書」とかいてあります。そのあと「転じて、ある特定の分野において権威ある書物のこと」「常に傍らに置く事から転じて、座右の書や愛読書のこと」皮肉として「ある特定の分野において優れすぎて誰も実行できない最良の実践を記述した書物のこと」とありました。その他「各種マニュアル本やコンピュータゲームの攻略本の書題にバイブルが冠されることがある」そうです。聖書「バイブル」は、神様の言葉です。その基本からもう一度、言葉の意味を考えてみたいと思います。
 パウロは、若い弟子テモテに自分がうけた憐れみについて教えています。このパウロは、イエス様とその弟子たちを迫害していた者でした。パウロは「イエス様の限りない忍耐」を知ったといいます。ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、み言葉を受け、自分の生き方を根本から見直しました。そして自分がキリスト者の「手本となる」ことを決断したのです。その中心には福音(神様のみ言葉)がありました。
毎朝の日課として、まず起きるとすぐ教会の扉を開けにいきます。その後、礼拝堂にて記念日ノートを眺めます。今日の日はどんな日なのか、誰の記念日なのかを知り祈るためです。毎朝のことですが、この教会が果たしてきた役割の大きさを実感するときでもあります。教会の扉を開けておくと、いろいろなことに出会います。また、ある時は迷い込んでくるものもあります。先週の日曜日にはスズメが舞い込んでいたそうです。一度教会の玄関に入ってしまうと、出ることが難しいのでしょう。教会の扉を開けておくというのは、神様との出会いを体験することでもあります。毎日私の知らないうちに教会にきて祈る方がいます。神様はいつでもオープンだから、教会もいつでもオープンです。この神様が手本です。
 パウロは「人々の手本となる」と宣言しています。この宣言ができるのは、パウロの中に福音があるからです。その福音こそが神様の言葉です。私たちもいま与えられている働きを終えるとき、神様のみ言葉に支えられてきた恵みに感謝することができるように。新しく始まる体制には手本となるような仕事をしていきたいと願います。