自由の中の
クレヨン牧師のミニエッセイ
「自由の中の不自由」
いつからかセキセイインコを飼っています。といっても本当の飼い主は隣りの教会の牧師でした。じつは今年の春の北海道転勤にともない我が家にやってきたのです。
先日、このセキセイインコをただなんとなくながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外にこぼしていたのです。数分後こんどはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。
オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
主イエスは正しさだけを招かれたのではなく、罪をも招かれたのです。自分の罪を認めつつ正しさの中に生きることができるでしょうか。主イエスと共にあるならばできると信じています。