「窓の内側」
2017年4月27日木曜日
窓の内側
クレヨン牧師のミニエッセイ
「窓の内側」
金曜日に二年ぶりで、礼拝堂の窓ガラスを清掃しました。毎日そこで祈っているので、汚れているのは知っていました。ところが「今度やろう、今度やろう」と思っているうちに二年が過ぎ去っていきました。なぜ自分は二年もやらなかったのだろうと考えてみました。
「いつでもできる」「誰かがやってくれる」「もうすこしいいか」という思いがあったのです。もし誰かに「汚れている」と、指摘されていたらどうだったでしょうか。「なぜわたしがしなければならないのか」と反発したでしょう。教会を整えることがいかに大切かをわかったのです。
ところが、礼拝堂の窓を拭いても拭いても奇麗になりません。ホースで水をかけても、ブラシでこすっても奇麗にならないのです。なぜなら、本当に汚れていたのは「窓の内側」だったからです。二年分の礼拝堂内側のホコリは大変なものです。
私たちの信仰生活はどうでしょうか。外からは奇麗にみえても、内側にホコリがあるためにかすんでいないでしょうか。主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。
内側にある信仰をさえぎるホコリは、祈りによらなければ取り払うことはできません。もういちどはっきり見えるように祈りましょう。そういう願いをこめて窓ガラスの内側を磨いていたのです。
「窓の内側」