「ピアノも弾き手によって」
礼拝堂の音響のよさから、コンサートの申込が多くなりました。今年もすでに5つのコンサートがあり、11月にはシャンソンとアコーデオンの2つが予定されています。いろんなジャンルの音楽を聞くことができ、牧師としては楽しい限りです。先週は、ブルースのコンサートがありました。ブルースというのは、本人たちの説明では「ロックのお父さん、ジャズのお姉さんくらいの位置づけ」だそうです。感想としては、大人の音楽だなあというところでしょうか。ピアニストに有吉須美人氏がこられ、素晴らしいものでした。めったには聴けない演奏でした。
さて、どの演奏会でも教会にあるピアノが用いられています。ところが、このピアノは弾き手によって様々な音を聞かせてくれるのです。次女・愛美の練習のときはそれなりに、邦楽アンサンブルでは邦楽っぽく、シャンソンではやわらかく、ロックでは他の楽器に負けない音がでます。そしてブルースにはブルースにあった音なのです。ピアノは変わらないのです。多少、調律の仕方が違うくらいですが、同じピアノが弾き手と音楽によって変化し、素晴らしい演奏ができるのです。
オルガンの2階席からながめながら、神さまと私たちの関係はピアノと弾き手に置き換えたらどうだろうと考えてみました。基本的にはピアノだろうと思います。しかし、弾き手は神さまだけではないのです。弾き手も私であったり、神さまであったりするのでしょう。神さまが弾き手のときに、私たちは素晴らしいピアノになり、私が弾き手になったときには勝手な音しかでないかもしれません。しかし、私たちがどんなピアノだったとしても、神さまの指によって福音を奏でることができるのです。神さまの指は、私たちを最高のピアノにしてくださるのです。