2020年1月20日月曜日

「配慮と優しさ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「配慮と優しさ」
 ヨハネ  4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
 私たちのもとから一人の兄弟が天に召されました。今日が誕生日で56歳になられるはずでした。心筋梗塞という急な病気で、あっという間に私たちのもとから神様のもとへいかれました。本当に優しい方でした。とくに弱い方々、子どもたち、お年寄りには優しく、みんな彼の笑顔が大好きでした。「どぎゃんでしょうかね~」が口癖でした。絶えず他者のことを考えておられました。「どぎゃんでしょうかね~」の言葉の中に、暖かい優しさをいつも感じていました。その優しさの横にはいつもイエス様がおられたのでした。
 イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。
「禅の道・茶の道」という本の中に、興味深い言葉に出会いました。その言葉とは、「風邪と客は大事にすると早く帰る」というものです。きっと、あまり大事にされると客は窮屈なのでしょう。だから早く帰ってしまうというのです。客をもてなすということは大変難しいことだと言えます。私たちの教会へも、だいたい平均で6名位の新しい方が来て下さいます。その方々によって応対には気を使います。そっとしておいたほうがいい方もおられます。兄弟姉妹のように応対されたほうがよい方もおられるのです。どちらにせよ、まずは言葉をかけることが大切なのです。職務質問になってはこまりますが・・・キリストは時に応じて、きめ細かい配慮をしてくださいます。私たちがキリストの御心を伝えるときに、どのような配慮ができるかを考えたいものです。教会の礼拝もサービスといいます。教会も牧師も配慮というセンスをどこまで気づいているのかと考えさせられました。
 イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。