2020年1月29日水曜日

「内面で何を考えるか」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「内面で何を考えるか」
2コリ 5:15 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
牧師候補生の面接では、まず召命観について聞かれます。簡単にいえば「あなたはなぜ牧師になるのか」ということです。しかし、それだけではありません。本当は「神様から牧師になるためのどんな招きをうけましたか」ということです。この微妙な違いは卒業が近くなると変わってくるように思います。初めの頃は「自分が、自分が」と語られるのですが、「主が、主が」となってくるからです。私が中心でなく、キリストが中心になったときに牧師として宣教に立つ準備完了となるわけです。
パウロは自己推薦と誇りの問題について再び語ります。パウロが語る福音は、自己推薦ではなく神様と人々の和解ということです。その務めを果たしてきたといいます。また誇りというのは、外面的なものでなく内面的なものであり、その人の内面になにがあるかを問われるとのべています。自分自身のために生きる人が多い中で、自分の救いのために死んでくださった方がおられる。そのことを思い、その方のために新しい生き方をしていこうと励ましています。その方こそキリストであると言うのです。
カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだイエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々はイエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。
 パウロは「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」といいます。パウロの内面にはキリストが生きています。そのキリストがパウロの内面にあって福音を証することへと駆り立てています。自分の内面に何が生きているか、問われているようです。