2019年9月5日木曜日

「神様への捨て台詞」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様への捨て台詞」
 
 イスラエル旅行の打ち合わせのために、京都教会へ行って来ました。三千院の紅葉はさぞ美しいだろうなと思いつつ、教会以外は何も見ず帰ってきました。だいだい心の余裕がないからこうなるのでしょうね。
 
 さて、京都教会の朝はものすごくあわただしいものです。小泉先生を知っている人はよくわかるでしょうが、朝起きるなりエンジン全開といったところです。その朝の一こまの出来事です。
 
 娘さんが先生に、出かけるギリギリになって「ねえ、車で駅まで送ってくれる」と頼みました。すると、「だめだめ、時間がない。家庭集会へでかける」と先生。「だって時間がギリギリで、遅れそうなんだもの」と娘さん。それでも「だめだ、こっちにも用事があるんだから」と。すると娘さんがこういったのです。「どうせいいわ。今から歩いていって、電車に乗り遅れて、遅刻してみんなに迷惑かけるから」と。よこで聞いていて大笑いしました。本心ではないでしょうが、「そこまでいうの」と思いました。親子の会話って面白いものです。先生はその後、青年に頼んでちゃんと娘さんを駅まで送られたのですが。
 
 そのやりとりを聞きながら、神様とわたしの関係を考えてしまいました。非常に勝手な自己中心的なお願いを突然してしまう。それがきいてもらえないと、だだをこねる。それでもだめならば、捨てぜりふ「どうせ神様は聞いてくれない。私がどうなってもいいんだね」。こんなことを繰り返している。情けない。
 
 それでも、神様は違った方法で教えて下さいながら、私にあった道の上で導いてくださるのです。そこに信頼できることが信仰の素晴らしさだと実感しています。