「自分というメディアの信頼性」
使徒言行 9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
ある本で「想いが通じる5つの基礎」を読みました。最初の項は「自分のメディア力をあげる」と書かれてあります。これは、「何を言うか」より「誰が言うか」で違う時があるというのです。たとえば社会経済の動向を、スポーツ新聞で読むのと、日本経済新聞で読むのでは、同じことでも伝わり方が違うのです。経済の問題を考えるのに、どちらの新聞に信頼を置いているかということです。野球解説を読む場合は逆になります。ということは、話しが通じるためには、日頃からの人との関係の中で、自分というメディアの信頼性を高めていかねばなりません。この信頼性が根底にあるかないか。これが、話しが通じる基本です。礼拝でもおなじことです。信頼を受けてないところでいくら説教を語っても、それは通じないのです。
サウロというのはパウロがキリスト者を迫害していた時の名前です。かれはダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会い「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われます。そこで彼は回心をし、キリスト者となるのです。パウロはすぐに宣教を始めるのですが、誰も彼のことを弟子だとは信じなかったというのです。
教会掲示板のポスターをみながら、会話してる声がきこえてきました。その時の説教題は「愛されると悲しくなる」でした。「おい、愛されると悲しくなるか。おれはとても嬉しくなるけどなあ」。するともう一人が「わかってないなあ。あんたのは、遊ばれているだけ。おれは悲しくなるのがわかるな あ。うん、本当に愛されたら涙がでるもんよ」。「そうかね。それくらい愛されてみたいもんだ」・・・と。この会話を聞きながら、「それくらい愛されてみたい」という言葉に、現代の人間のもつ寂しさみたいなものを感じたのです。悲しくなるほど愛されてみたいというのは、愛を実感したいというのとはちょっと違うのではないでしょうか。そのような愛に(出会いたい)ということかもしれません。「愛されてよかった」だけでなく、その愛から押し出される一歩を踏み出す勇気を与えられるのです。最高のメディアはイエス様の愛かもしれません。
パウロはキリスト者を迫害していいました。それゆえに初めは信じてもらえませんでした。しかし、その後のパウロの姿、その熱意、信仰によって人々は変えられていったのです。パウロはキリスト者として、弟子として受け入れられていきました。パウロのメディア力は信仰にあると言えます。