2019年9月25日水曜日

「余分な意見」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

余分な意見」

 ヨハネ  19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。

ある時説教に引用した句からいろいろと意見をいただきました。その句は「松の花四十は老の美しき」です。一番多かった意見は「そういえば、四十歳は自分のこれまでを一応区切りをつけた歳だった。四十歳は人生のひとつの節目だ」というものでした。きっと心情も身体もひとつの節目を迎えるのかもしれません。そこに美しき老があるのかも。イエス様は十字架におかかりになった時、約33歳(聖書によれば)だったと書かれてあります。この年齢をどのようにとらえたらいいのでしょうか。ここだけでも多くの意見があるみたいです。違った意見を聞くことも大切だなと思います。

 イエス様は総督ピラトから死刑の判決を受けます。しかし、ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と告げています。イエス様をなんとか釈放しようとするのですが、群衆の声に負けてしまうのです。その群衆の声は「十字架につけろ」という一つの意見しかありませんでした。違う意見をもっていることを認めない群衆の声が、イエス様を十字架の死へとおいやったのです。

 ある本の中に考えさせられる文を見つけました。「二人の人が同じ意見を持っているとすれば、そのうちの一人は余分である。同じものしか見えない人といくら話をしたところで、何も得るものはない。自分と同意する人といくら話しても、意味がない」というものです。人が独裁者になったり、裸の王様になったりするのは、違う意見があっても聞かないからです。また意見が言えないのは、聞く側に大きな原因があります。聞く側の人にとって同じ意見ばかりのときは、立ち止まって自分自身を省みる必要があります。

 イエス様を死刑にするために群衆はみな「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいます。同じ意見の者ばかりがそこにいました。ただ総督ピラトだけは違う意見をもっていました。ところが、同じ意見の者たちに押し切られてしまうのです。意見の違いを理解しないところの結果が、死刑につながっていったのです。ただし、十字架の意味は別の所にありましたが。今日は、意見を聞くことの本当の意味を考えたいと思います。