「わかってもらう言葉」
1コリント 14:9 あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
教会に相談にかられる方が少しずつ多くなってきました。人生相談や家庭問題。恋愛問題や金銭問題もあります。教会も牧師も解決を持っているわけではありません。ただ話をよく聞いていると「一体何が言いたいのか」と考え込むことがあります。人は明確な言葉を使って相談するのが苦手のようです。自分の中でぐるぐる回るばかりで、何を伝えたいのかがはっきりしないのです。そこがはっきりすれば、教会が持っているイエス様のみ言葉で答えることができるのですが。
使徒パウロは「異言」というものについての注意を与えています。異言とは聖霊降臨のときの「ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)というところに起源があります。しかし、「霊が語らせるままに」とありますから、ただの外国語というわけではないようです。パウロも異言を霊的な言葉としてうけとっており、語ることを禁じるより、それを解釈する人が必要と忠告しています。つまり、何を語っているかわかることが大切です。パウロは「空に向かって語る」という面白い表現をしています。人には届かず、空に消えていく言葉のむなしさを忠告しています
聖書日課を作成したことがあります。信徒の方々の書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。さて、3月分位を編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。私はこれらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。
パウロは「どうして分かってもらえましょう」と言います。私たちは、「何を話しているか」を人に分かってもらわねばなりません。キリストのみ言葉をどうやったら分かりやすく伝えることができるでしょうか。それは自分の言葉の点検を必要とします。自分だけにわかる言葉をつかうのでなく、お互いに理解できる言葉、コミュニケーションを大切にしなければなりません。そのためには相手のことをまず考えることです。