「それはただの石かも」
ルカ 12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。
ある教会のバザーに、黒い丸いものが出品されました。しかし、それが何であるか誰もわかりませんでした。みんなで、こうじゃないか、ああじゃないかと意見をのべていました。ある人は置物だといい、ある人は何かの蓋でないかと。すると一人の子供がやってきて、その黒いものを取り上げ、「黒い石だ」といったのです。あるがままにみていると、まさしくそれは石でした。ただし何に使うかはいまでもわかりません。バザーって何が出てくるかわからいものです。
イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。わたしたちは見分ける目を持たねばならないのですが、それが一番難しいといえます。イエス様のみ言葉を基準にしなければできないことです。
道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本には以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を把握していると思いこんでいる」。自分だけの味方で「あるがまま」ということでは客観性に乏しく、それは本当の「あるがまま」ではないということです。
イエス様は、人は自然現象のしるしを見分けることができるのに「今の時を見分けることを知らないのか」と言われました。あるがままにみてきたことの知恵を集めると、確かな情報が得ることができます。しかし、その知恵をつかって時を見分けるためには、信仰の目が必要となります。キリスト者は信仰によって「あるがまま」に見ることができます。それが時を見分けることになるのです。