「旅は神様がすべて用意されている」
マタイ 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
クリスマスの出来事の中に「旅」というテーマがいくつか散りばめられています。一つは受胎告知を受けたマリアは親類のエリサベトを訪問する旅があります。また人口調査のためにベツレヘムへの旅。そしてエジプトへ逃避の旅です。この3つの旅の中にも「神様が共におられる」ということが繰り返し語られます。私たちの人生は旅にたとえられます。自分から進んでいく旅もありますが、人生の旅は困難な旅の方が多いかもしれません。そのようなときにこそ「神様が共におられる」ことを実感することが旅の目的かもしれないと思います。
イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。しかも送り出す方向も指示しておられます。
インドの笑い話に次のようなものがあります。
旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。
「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
「そうだな、三・四十分というところだな」
「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」
「いいとも。乗りなされ」
それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。
「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
「そうだな、一時間くらいかな」
旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。
「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」
進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。
イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけだと言えます。そして方向を見据えるということです。与えられた時間を神様のために用いること。それが宣教です。弟子たちは何も持ってないようで、信仰と時間と方向を持っています。