2018年1月30日火曜日

「レッテルがある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「レッテルがある」
 
 禅の話で次のようなものがあります。
 
 池で、あなたの母と妻が溺れている。あなたならどちらを先に助けるべきだと思うか。禅僧がそのような問題を出した。これは大変です。そこに母、妻の両方がいた場合、答えよっては家族争議にもなりかねません。
 
 年をとって弱っている母から助けるべきだ。妻は元気だから少しは泳げるのではないか。いやいや、母は命がもうそんなには長くない。妻はまだ長生きできる。元気な妻を助けて、それから二人で母を助けるのがよい。いやいや、それでは母が死んでしまうではないか。と意見は一致しませんでした。質問をだした禅僧は「おいおい、そんなに議論していると、二人とも溺れ死んでしまうぞ」と言うが意見はまとまりませんでした。
 
 それでは、「老師、老師はどちらから先にされますか」と問いました。すると禅僧は、「わしか、わしは、近くにいるほうから先に救う」と答えた。
 
 これが禅の「空」の思想でしょう。つまり母とか妻とか、レッテルにこだわらない。レッテルを貼っているので、どちらを先にと考えてしまうのです。レッテルをはがしてしまえば、そこに溺れているのは二人の人間です。それがわかれば迷いなく近くにいる方から救えるのです。やっぱり、私はクリスチャン。禅僧にはなれません。神様の御心でどちらかが先に救われると考えているのですから。