2018年1月2日火曜日

「間」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「間」
 
 ヤクルトスワローズの野村監督が、ある対談で次のようなことを言ってました。監督によれば野球の打者は打つさいに、「イチ、ニイ、ノー、サン」と唱えなければいけないそうです。この「ノー」が入らない打者は、「ノー(能)なしなのだ」と言ってました。
 
 バッターが構え、振り上げて打つとき、真っ直ぐの球ならその動作は「1、2、3」でよい。しかし、微妙な変化球を打つには「ノー」を入れた「間」が必要だというのです。大切なのはこの「間」だと言ってました。
 
 私たちの人生にはこの「間」があるでしょうか。間のない人生のことは「まぬけ」というのかもしれません。信仰にも同じことが言えます。これでなければならない、という考えには「間」がありません。宗教の恐ろしさとは、この「間」がなくなったときだと思います。熱狂的になるあまり本来の姿を見失ってしまうのです。
 
 しかし、「間」ばっかりでもいけません。信仰まぬけにならないためには、つねにキリストの御言葉を聞くことしなかいようです。しかし、それが一番難しいのですが・・・。