2017年3月16日木曜日

悪魔の悪魔

クレヨン牧師のミニエッセイ
「悪魔の悪魔」
 
「波」六月号を読んでいましたら、次のような言葉に出会いました。
 
 「世の中には優しさという言葉が流行っているようだが、悪を生きたことのない人には優しさなんて表現できないのではないか」。これはある文学賞を受賞された作家の言葉です。
 
 「悪を生きる」とはどんなことでしょうか。私は善でありたいし、人からもそうみられたいと思います。もしも「悪」と言われたらきっと落ち込むでしょう。しかし、その落ち込みが優しさを生むのかもしれません。
 
 ある牧師が、「悪魔に勝つには、悪魔にとっての悪魔にならないと勝てない」と言われました。なるほどだなと関心したのです。なぜなら主イエスは悪魔にとっての大悪魔だったからです。
 
 主イエスは聖書時代の律法学者たちからは「悪を生きた」方でした。しかし、それが故に律法学者たちに見捨てられた人々に「優しさ」の表現ができる方だったのです。
 
 「自分が善だ、自分は正義だ」と言い切る人たちには優しさは感じられません。優しさを持つと自分だけではいきていけないからです。悪に生きるとは、弱さに生きることかもしれません。