2016年12月7日水曜日

真理の道

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ヨハネ  4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。

 教会を離れる原因の第1位は「人間関係」だそうです。教会内の人間関係につまずいたということだそうです。しかし、ちょっと考えるとそのおかしさに気が付きます。神様との関係はどうなのだろうと。イエス様との関係はどうか。それは個人でもつながっておれるという意見のようです。本当にそうでしょうか。同じ信仰持つ者の交わりが教会です。神様との関係もこの交わりの中にあると言えます。人間関係につまずいたという人の意見はなにか違うものを感じます。

 イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。

私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感した道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かう道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。私たちにとって救いの道はイエス様です。イエス様そのものが道であり、真理であり、私たちはその道の上を自分の十字架を背負って歩いています。この道は確実に救いへとつながっています。だからこそ安心して歩いていけるのです。

 イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。