「出会いの存在」
2016年12月29日木曜日
出会いの存在
クレヨン牧師のミニエッセイ
「出会いの存在」
マカオに住んでいる信友(親友)が、水晶を送ってくれました。気功の本を読んでいて、水晶のことがよく書かれてあるので少し興味を持っていたところでした。そのうちに電話でもして送ってもらおうと考えていたら突然届いたのでした。なんでも聞いてみると、「たぶん水晶を送ってくれというだろうから、一年前に買ってあったんだよ」といわれました。
自分のことをよく知っている人の存在は、恐ろしくもあり、安心もします。何を考え、何をしようとしているのか、良くわかってくれている存在。その存在は適切なアドバイスをくれる存在です、また助けてくれる存在でもあります。
私と彼との出会いについて考えるとき、キリストがその間におられたことは実感できます。たった一年間の神学校での出会いでしたが、そのころよく信仰について語り合ったことを覚えています。真剣にキリストについて語り合った中だからこそ、その後も真剣に向き合う存在となれたのだと思います。
「出会いの存在」
2016年12月28日水曜日
光を迎えて
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
クリスマスおめでとうございます。この世の光としてお生まれになったイエス様のことを覚えます。そして、光がこの世にこられたので、私たちの人生もこのように明るい朝を迎えることができるようになったのです。今朝の礼拝の参加された皆さんにはこの世の光としておられるイエス様が実感できるのではないでしょうか。ただとても寒いですが。
ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。
クリスマスはもともと冬至でした。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。
イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。
2016年12月27日火曜日
祈りは対話
クレヨン牧師のミニエッセイ
「祈りは対話」
とってもきのユダヤジョークをおひとつ。
お祈り
母親「ママたちは、今夜お客様で忙しいけど、ベットに入る前に、ちゃんとお祈りしなくちゃいけませんよ」
娘「はい、ママ」
翌朝のこと。
母親「昨日の夜は、ちゃんとお祈りした?」
娘「ええ、ママ。ひざまついて、いつものようにお祈りしようとしたんだけれど、その時ね、神様はいつもと同じお祈りに飽き飽きしちゃってるじゃないかしらってひらめいたの。それでベットに入ってから、神様に『三匹の子豚』のお話しをしてあげたの」
実はこの話、お祈りの本質を伝えているかもしれません。お祈りの本質はやっぱり対話だとおもうのですが。
「祈りは対話」
2016年12月26日月曜日
2016年感謝を持って
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ルカ 2:29 主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
クリスマス主日が終わると、教会も1年のまとめに入ります。今年1年はみなさんにとってどのような時でしたか?喜びも悲しみも、楽しみも試練も様々なことがおこったことでしょう。しかし、それは私たちの人生の一部です、毎日変わる人生の出来事に中で変わらないものをみつけています。それは神様です。そして神様から与えられる信仰です。この信仰をもって1年を振り返ります。
幼子イエスをメシアと告白するシメオン賛歌で、クリスマスの出来事はクライマックスを迎えます。シメオンは幼子イエスを見たとき、イザヤ書の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」という預言の成就を見ました。神様の言葉が実現したことを見たシメオンは「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌うことができました。神様による約束は必ず実現することを知ったからです。
京都の清水寺に、大西良慶という貫主がおられました。良慶貫主が書かれた本の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟ができた時」という言葉があります。100歳を超えての法話で語られたものです。良慶さんとして親しまれた老和尚の含蓄のある言葉に感銘を受けました。「ほっといたかて死によるんやから、死をおそれない」。すでに悟りを開かれていたのでしょう。なんだかシメオンと通じるものを感じました。
2016年も仕事納めがちかづきました。今年1年を振り返り、神様からの多くの恵みと導きがあったことに感謝したいと思います。私たちの働きは、神様の働きの中の一部分にしかすぎません。しかし、その一部分でも各自が誠実に関わって1年の終わりを迎えることができます。シメオンはいいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」今日1日はそのことを覚えて感謝のうちに1年の納めをしたいと思います。
2016年12月25日日曜日
2016クリスマスおめでとう
クリスマスおめでとうございます。今年も御子の誕生を迎えることができました。今年は4月に熊本地震があり、いつもとは違ったクリスマスを迎えました。しかし私たちには違ったクリスマスでも、神様にとっては同じクリスマス。神様は共におられることには変わりないクリスマスです。
2016年は「恐れ」を知らされた年でした。熊本地震で地の基が揺り動かされる「恐れ」を覚えました。私たちの生活は、なにげない生活です。そのなにげない生活など一瞬にして吹き飛ばされてしまうのです。わずかな幸せさえ、突然の出来事にそして一歩間違うと、わかなくも消え去るという経験をしたのです。今年私たちは「恐れ」を経験しました。しかし、「恐れ」の経験は、同時に「神様との出会い」の経験でもあるのです。
クリスマスの出来事は、すべて「恐れ」に対する、信頼と従順のうえに成り立っています。信頼の上に立った人間の、神様に対する従順が、神様のひとり子を人間に迎えるという奇跡を起こしたのです。この奇跡のゆえに私たちもインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ぶことができます。私たちはつねに「恐れ」のなかにあって、神様と出会うのです。「恐れ」の中で、神様の救いはいつまでも私たちと共にいてくださいと祈るのです。《神は我々と共に》この喜ばしい知らせは、神様への「恐れ」を知った者のみが、信頼と従順のゆえに告白できる信仰の宣言なのです。
私たちはいろいろな状況に立ちつつ、神様を迎えています。仮設住宅で、半壊した自宅で、新しく住み始めたみなし仮設アパートで。しかし、それがどのような場所であっても神様が共にいてくださる場所はあります。神様のみ言葉を信頼して受け取るときに奇跡はおこります。その奇跡にこそ希望があるのです。クリスマスおめでとう。
2016年12月24日土曜日
2016年12月23日金曜日
きままな休日
2016年12月22日木曜日
何かをしないという愛情
クレヨン牧師のミニエッセイ
「何かをしないという愛情」
あるとき教区の教職退修会が行われました。牧師たちが集まり、いままで与えられた課題について話し合いがなされました。
現在の牧師たちの課題とは何だと思いますか。宣教の具体的方法についてだと思われますか。いいえそうではありません。課題としてあげられているのは、「子供とともなる礼拝式」「信徒説教者の問題」「死と葬儀」「平和・人権・正義」です。その中でも、あれも課題、これも課題、それも課題と課題をたくさんだしあった会でした。
このような会にでて思うことは、自分は思考方の牧師ではないなということです。すぐ考えもせず行動する牧師だと思うのです。こんなに多くの課題を、これからあれもこれもしていくのでしょうか。もっと大切な「たった一つのこと」がないだろうかと思うのです。牧師として「これのみ」を探したいと願っています。
休憩時間に本を読んでいますと次のようなことが書いてありました。「これからの親は『何かをする』とかに対してではなく、むしろ『何かをしない』という愛情のために心のエルルギーを使うべきである」。なるほど、なるほどと思いながら、何もしないでいることができないのが牧師です。いや、なにも議論しないではいられないのが・・・。
「何かをしないという愛情」
2016年12月21日水曜日
聞くという奉仕
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ルカ 10:42 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。
イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。
次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。
イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。
2016年12月20日火曜日
木のぬくもり
クレヨン牧師のミニエッセイ
「木の温もり」
益田教会を訪問しますと、必ず翌日は「美都温泉」に行くことにしています。ここの温泉はとても素晴らしく、露天風呂も大きいし、リラックスにはもってこいです。また、温泉にある食堂も誠実なお店で、ある老牧師の言葉を借りれば「嘘がない」店です。
その温泉には、桧をくり貫いた湯おけと椅子があります。それがとても気に入ってしまいました。受付の人に聞けば、美都町で作られているとのこと。さっそくそこへ出掛けてみることにしたのです。するとそのお店にはたくさんの木の道具がありました。そのすべてが木をくり貫いて作られていたのです。
桧、杉、樫の木、桑の木、樅の木、桜の木、柿の木、銀杏の木と。すべての木でお椀がつくられ、その種類に驚きました。しかもその工芸品はすべて廃材を使ってあるとのことでした。
木には温もりがあります。いま食卓にはいろいろな種類の木のお椀が並んでいます。家族はみな違う種類の木の腕を使っています。なんだか食卓に温もりがあります。
イエス様も大工として、木と付き合っておられたのかなと思いつつ、感謝して食事をしています。
「木の温もり」
2016年12月19日月曜日
はじめに
阿久根ルター君の朝のみ言葉
マルコ 1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
エッセイでも、絵本でも、まず第1行に苦労します。最近はエッセイでこの1行が出てこないので、後の文章がすんなりいかないもどかしさを感じています。あとで言いたいことがあるときの第1行はそこにむけての導入になります。導入を書きすぎるとそれだけで文書の全体が解ってしまいます。そうすると最後まで読まなくていいやとなるのです。第1行を読んでもっと読みたいと思っていただける文章が書ければいいなと思います。
マルコによる福音書は、イエス様のことを記した最初の書物です。最初ですから、何から書きだしてもよかったのです。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書きました。ですからこのあとイエス様の事を書いた書物を「福音書」という名前でよぶことになったのです。最初に何から書きだすか。それは、その書物全体を表すもので、大変大切なところです。
いま新しい絵本を執筆中です。絵本で一番難しいのは物語がはじまる出だしです。小説を書こうと思ったら、出だしが出来た時にすでに完成していると言った人もいます。会心の出だしなどみつかりません。しかし、会心の出だしを学ぶには絵本を読むのが一番です。「こぶたのおるすばん」の出だしはこうです。「むかしあるところに、ブタの一家がおりました。とおさんブタとかあさんブタがありました」。これで1頁が終わりです。この絵本は悪いベビーシッターの物語です。ブタの一家なのに子どもはどこか思う。家族の舞台設定はすでにこの1行でできている。この1行があとの物語に影響を及ぼすのです。見事な出だしだと思います。
マルコによる福音書の出だしは「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。最初にかかれた福音書ですからどんな言葉ではじめてもよかったはずです。しかし、福音書の始まりは、これしかないという出だしです。何が書かれてあるか、何を書こうとしているか。たった1行で表現してあります。私たちの人生を絵本にするなら、出だしは何と書くでしょうか。
2016年12月17日土曜日
2016年12月16日金曜日
お客さん信者が
クレヨン牧師のミニエッセイ
「お客さん信者が」
地区の牧師会で、「一つの礼拝が成立するには、約二十種類の奉仕がある。その全部を言えないようでは信者として失格だな」と引退された牧師が言われました。私自身は言えるかと冷や汗ものでした。しかも続けて「その二十種類のうち五つ以上に関わっていなければ、キリスト教をやめたほうがよい」とまで言われました。
礼拝での奉仕についてどのくらい知っているでしょうか。そしてどのくらい関わっているでしょうか。私たちの教会では、奉仕するもしないもその人の信仰の問題だと言ってきました。ですから「しましょう」と言ったことはありません。むしろ自分がやればそれでよいと言う考えだったのです。その方が楽なのです。ところがそれでは、皆さんを神様から遠ざけていることに気がつかされました。
「お客さん信者の多い教会は絶対成長しない」との言葉の重さを感じます。それではどうあるべきか、牧師として悔い改めを迫られています。
「お客さん信者が」
2016年12月15日木曜日
呼吸を合わせるリズム
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ルカ 12:42 主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
「呼吸を合わせる」というカウンセリング療法があると聞きました。呼吸を合わせるとどうなるのだろうと思います。どうやったら呼吸を合わせることができるでしょうか。私は高校の授業で柔道を習った以外、武道を経験したことがありません。しかし、その数少ない柔道の経験の中に「呼吸を合わせる」と言うことを教わったように思います。ただとても難しかったという記憶がある程度です。
イエス様は、おわりの時に備えて「常に目を覚まして待つ」ことを、「目を覚ましている僕」のたとえで教えられました。主人がいつ宴会から帰ってきてもいいように準備し、目を覚ましている僕は幸いであると言うのです。ユダヤの夜の時間は3分割されており、夜、真夜中、夜明けとなります。そのとき、時間通りに仕事をすることの幸い、そして主人がそれを知る幸いを語っています。
生活にもリズムというものがあります。いつしか同じ時間どおりに生活しているのがわかります。そのリズムがちょっとでも狂うと、なんだか不安定な感じになるものです。ある時、忘れ物をしたために出勤時間に家に戻りました。するといつも乗る電車に乗り遅れてしまいました。たった10分のことですが、リズムがすべて混乱したように思います。たった10分でも、電車に乗っている人たち、その数、降りる駅など全く違って感じたのです。乗り継ぎも悪くなり、朝からなにか躓いてしまったような感じでした。これまで、生活のリズムなどあまり気に留めませんでした。いつのまにか自分で作り出している、自分のリズムがあります。一番心地よいリズムを刻むように生活しているのかもしれません。そう思うと共同生活するときのリズムも相手の立場に立って考えることも大切だと思います。
イエス様は「時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人」と言っておられます。主人のことをよく考えて行動している僕の話です。自分のことばかりでなく、神様が何をされようとしておられるか。私達はなにをするべきなのか。神様に忠実な僕とは何かを考えて生活していきたいと願います。
2016年12月14日水曜日
食尽きたり
クレヨン牧師のミニエッセイ
「食尽きたり」
ある禅宗のお坊さんの手記を読んでいて、心にガツンとくるものがありました。
お布施稼ぎが本当の生き方ではないと悟ったお坊さんがおりました。寺を飛び出したものの、物乞いをするわけにもいかず、さして普通の商売をするほどの俗物でもないお坊さんだったのです。そこでこのお坊さんは考えました。誰かにわらじの作り方を聞いて、毎日わらじを作っては人のよく通るところに置きました。そして「このわらじお代は心持ち次第」と書いて、竹筒をそこに置いたのです。こうして夕方になると竹筒のお金をとり生活していたのでした。
ところがあるとき、悪たれ小僧が竹筒の中のお金をとり、そのあとに馬糞をいっぱいにつめておいたのです。そうとはしらずこのお坊さんはいつものように夕方お金を取りに行きました。しかし、開けてみるとお金ではなく馬糞がいっぱいだったのです。さてそのお坊さんはどうしたのでしょうか。いたずらとは考えず、「我が食尽きたり」と観念し、何も食べないで座禅したまま死んでしまったそうです。
牧師として、信仰者としてガツンとやられました。信仰は食物を得る方法ではなく、自分の本質が生きる生き方だと思います。もし、食物が神様から与えられなかったら、食わずに死ぬという覚悟が大切なのです。神様の道のために生命を全うしなければなりませんが、神様の道のために食えなければ餓死するまでのことなのです。
「食尽きたり」
2016年12月13日火曜日
非難されないように

阿久根ルター君の朝のみ言葉
2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。
ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。
8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。
会議とは何か、その進め方を知るためにいくつかの本を読んでいます。「こうすれば会議は必ずうまくいく」という、アメリカで出版された翻訳本です。こういった内容の本は、以外と面白くためになります。この本から学んだことは、会議に置いて重要な役割を果たす人は2人であること。それは「司会と書記」。この2人は自分の意見を言ってはならず、その役目は「会議における交通整理」であること。なるほどと思いました。書記は出された意見をコンパクトにまとめ、壁にある模造紙にはっていく。その後、同じような意見をまとめる。会議にでているメンバーはそれをみながら、重複した意見は言わない。逆行しない。司会は一人でも多くの人の意見をきくように整理し、非難、中傷などはきちんと注意する。何回も同じ意見を言う人には、納得していただくように説得するなど。行き過ぎた非難は会議をだめにしてしまいます。
パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。
2016年12月12日月曜日
暗闇の中で
2016年12月11日日曜日
2016年12月10日土曜日
きままな土曜日
2016年12月9日金曜日
悔い改めて待つ
阿久根ルター君の朝のみ言葉
マタイ3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」
教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。
聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。
ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。
聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。
2016年12月8日木曜日
信仰のブレーキ
クレヨン牧師のミニエッセイ
「信仰ブレーキ」
この夏は神様に豊かに用いられました。とくに自動車には大変な思いをさせました。一ヶ月で三千キロあまりを走破したことになります。よく無事で帰って来れたと思うこともしばしばありました。これもみな神様の守りあってこそです。いま整備を終えた自動車をみると頭が下がる思いです。
さて、今月の経験で一番に思い出すのは、百キロで飛ばしている高速道路で、ブレーキがロックされて効かなくなったことです。電気系統のベルトが切れてそれがどこかにあたったのか、とにかく践んでも効かなかったのです。半分あせりながら、半分やけに落ちついていました。「このまま死んでは神様に申し訳ない」と祈りながら真剣に考えてみますと、やけに冷静に対処できました。こんなわたしでもまだまだ神様に用いられたいと願ったのです。
しかし、ブレーキが効かないことがこんなにも恐ろしいとは、初めての経験でした。私たちの人生においても、キリスト信仰というある種のブレーキが必要だと実感しています。突っ走るだけが神様の御心ではないのです。
「信仰ブレーキ」
2016年12月7日水曜日
真理の道
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ヨハネ 4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
教会を離れる原因の第1位は「人間関係」だそうです。教会内の人間関係につまずいたということだそうです。しかし、ちょっと考えるとそのおかしさに気が付きます。神様との関係はどうなのだろうと。イエス様との関係はどうか。それは個人でもつながっておれるという意見のようです。本当にそうでしょうか。同じ信仰持つ者の交わりが教会です。神様との関係もこの交わりの中にあると言えます。人間関係につまずいたという人の意見はなにか違うものを感じます。
イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。
私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感した道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かう道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。私たちにとって救いの道はイエス様です。イエス様そのものが道であり、真理であり、私たちはその道の上を自分の十字架を背負って歩いています。この道は確実に救いへとつながっています。だからこそ安心して歩いていけるのです。
イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。
2016年12月6日火曜日
自分の語ることを
クレヨン牧師のミニエッセイ
「自分の語ることを自分で聞く」
牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。
自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。これは私の説教の原点です。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と主イエスは言われます。隣人を自分と見ることができるか。それは大きな問いでもあります。
「自分の語ることを自分で聞く」
2016年12月5日月曜日
ゆとり
阿久根ルター君の朝のみ言葉
マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。
「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにしたそうです。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計が飛ぶように売れているそうです。
イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。しかし、本当にそうかなと思います。イエス様が何も持っていくなというとき、それは神様にすべてを委ねなさいということだと思います。それが出来ないから燃え尽きてしまいます。
賀来周一先生が信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して紹介されていました。先生は「いい・加減」のすすめと題してこの問題を取り上げておられました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「時間をかけてよい」というおまじないを自分にかけてあげればいいのです。
イエス様も弟子たちの一生懸命にたいして「しばらく休みなさい」といわれました。「休んでいいのだよ」というメッセージをくださるのです。心の休みを持ちつつ与えられた仕事をしましょう。燃え尽きないように。あなたが燃え尽きると、隣の人にも火は移りますから。
2016年12月4日日曜日
2016年12月3日土曜日
2016年12月2日金曜日
午後6時の公園
クレヨン牧師のミニエッセイ
「午後6時の公園」
午後6時に、団地の公園に行くことが多くなりました。なぜ行くのかといえば、大げさにいえば「教会の宣教の確認」です。教会の鐘が鳴り響きはじめのころ、一日もはやく地域の人から愛される鐘になればいいなと思っていました。どのように人々の生活に溶け込んでいくのか、それも楽しみの一つでした。
最近午後6時の公園では、あちこちにお母さんの声がします。「鐘がなったから家へ帰りなさい」「お外の遊びは教会の鐘までといったでしょう」「いつまであそんでいるの、もう鐘がなったでしょう」等々。
神様は、私たちの知らないうちに時計として、また子供との関わりの中に鐘の音を響かせてくださっていたのです。朝、昼、夕の鐘の音。明日はどんな人たちの心に届くのか。考えるだけでも幸せになります。
「午後6時の公園」
2016年12月1日木曜日
本当の大人
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「本当の大人」
フィリピ 1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。
多くの人は失敗したときに「こんなはずじゃなかった」と言います。その背景には「自分は利口なのに」「なんでこんな自分が」と思うのです。はじめから「自分は失敗する人間だから」とおもっていたら、「こんなはずじゃなかった」とは思わないし、失敗しても立ち直るのが早いものです。作家の遠藤周作が「本当の大人というものは、自分のすること、為すこと、必ずしも正しくないことを知っている存在である」と言っています。
パウロは、フィリピの信徒のため「知る力」「見抜く力」を身につけるようにと祈っています。この箇所はとりなしの祈りの部分で、フィリピの人々に正しい教えを知ること、それに従って行うことを勧めています。神様の前に、自分は何者であるかを知り、自分を吟味して、見分ける力を与えられるようにと祈るのです。
数学者の教授が「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と指摘されていました。私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。
神様の前には、私たちは正しいことを為しえないと知ること。それを自分の中に見抜くことで愛が深まるように思えます。いつも自分が正しいという立場では、相手を思いやることはできません。本当の大人、信仰者とは、神様の前に自分の愚かさを知り、重要なことを見分けられる人のことでしょう。
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