「つもりが怖い」
ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
子どもたちが小さかったときよく「~しなさい」と言ったものです。「勉強しなさい」「早く寝なさい」「早くお風呂にはいりなさい」などなど。するときまって子供たちが次のように言いました「いまするつもりだったのに」。このとき「つもり」という言葉は一体何かなと考えてしまいました。確実なことは「つもり」では何もやってないということだけでした。
福音書の中では、ルカによる福音書にのみ「少年イエス」の出来事が記されています。家族の中でマリアとヨセフの子どもとして生活されていた出来事です。神様であるイエス様を、自分の子どもとして育てることは私たちには想像できません。しかし、人として同じように生きてこられた神様であるということを思わされる出来事です。親であって親ではない。これが「つもり」にならなければいいのですが、マリアとヨセフにとってはいつも間違いやすいものではなかったでしょうか。
「つもり」というのが一番危ないことだと思います。「~しているつもり」。つまりできてないと言うことです。自分ではできているように感じます。しかしできてないこともわかっているから「つもり」なのでしょう。勉強しているつもりで、他のことをしている。やっぱり自分をだますのは、自分が一番巧妙なのでしょう。自分が自分だまされいあためには「つもり」を考え直すことかもしれません。
マリアとヨセフは、イエス様の親でした。それが「つもり」に変えられる一瞬があったようです。イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われています。実際は親であるが、神様からみ子をあずかった存在です。このことをしっかりと自分のうちに確認できないと、親のつもりになってしまいます。マリアとヨセフがこの世では育ての親であろうとも、イエス様は神の子なのです。そしてマリアとヨセフでさえもイエス様の十字架によらなければ救われません。私たちもキリスト者のつもりというのが大変な問題です。