2017年10月5日木曜日

「らしくしろ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「らしくしろ」
 
 一休禅師の逸話に次のようなものがあります。
 
 「あるとき一休さんが、めずらしく説法をするといいだした。人々は大喜び、いったいどんな話が聞けるのか楽しみに集まってきた。みなが集まり固唾をのんでまっていた。すると一休さんがでてきて、たった一言『らしくしろ』といわれた」。
 
 さすが一休さんだと感心してしまいました。つまり「らしくしろ」には主語がないのです。自分で考えて「それらしく生きろ」といわれたのではないでしょうか。
 
 しかし、この「それらしく生きろ」ということは、簡単なことではありません。私たちは「それらしく生きる」ことができないから迷うのです。立野は立野らしく生きようとしても、人のことが気になったり、そのために自分を造りかえようとしたりするのです。それならば主語を変えればいいのです。つまり「キリスト者らしく」生きようとしたらどうでしょう。もっとつっこんで「キリストのように」生きるとしたらどうでしょうか。
 
 私たちはキリストの足跡を一歩一歩たどっていくしかないのです。それが、「キリストにあって君は君自身でいたまえ」ということでしょうか。