「大切なことを見失う」
クレヨン牧師のミニエッセイ
「大切なことを見失う」
東京での会議のあと、新幹線に乗ってまず祈ります。この会議で神様は一体何を教えておられたかを確認するためです。次に「うなぎ弁当」を食べる。これが日課のようなものです。食事が終わると、次は何か本を読むことにしています。大抵、熱海までくると眠くなってきて京都まで寝ます。
今回はアントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。それは次のようなものです。
「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。
これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私はこのたとえを読んでとっさに窓の外をながめました。第一編に与えられた聖句はこれでした。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」マタイ十六章二十六節