「主の目から自分をみる」
箴言 6:16 主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある.
ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。祈りの時の何かを捨てなければ本当の祈りにはならないかもしれません。
「祈りは神様との対話」とよくいわれます。一日の出来事を感謝しつつ、喜びの時には弾んで、うまくいかない時にはありのままに、悲しいときには泣きながら、対話できたらいいなと思います。対話は話しかけることから始まります。その話しかけをイエス様は、「父よ」(ルカ11:2)と呼びなさいと教えられました。「お父さん聞いて聞いて」と、子供がいいます。そのことをイエス様は教えてくださったのです。天の父は聞いてくださる神様です。そして聞きながら包み込んでくださるのです。「そうか、そうか、わかったよ」と。
箴言における「父の諭し」の七番目は、他人の保証人とならないようにと繰り返し警告しています。その後保証人になって約束し苦況に陥った場合は、たとえ友人であっても断固とした態度をとるようにと進めています。人間とはいかなるものであるかを教えているようです。
箴言は、主が憎まれるもの、いとわれるものとして次のものをあげています。「驕り高ぶる目」「うそをつく舌」「罪もない人の血を流す手」「悪だくみを耕す心」「悪事へと急いで走る足」「欺いて発言する者」「うそをつく証人」「兄弟の間にいさかいを起こさせる者」。人間の体の表現をとりながら、忠告しています。
自分自身を振り返ったとき、主の前に自分はどうであるかを吟味しなければなりません。箴言がいうようなことはしていないと言い切れるか。自分はそう思っていても、主の目からみればどうかを考えねばならないのです。常に自分を顧みながら、今日の日を過ごしてまいりましょう。