戒語
クレヨン牧師のミニエッセイ
「戒語としてのイエス様」
「良寛は己に厳しくには優しかった。不機嫌な顔を見せたことがなく、いつも優しい微笑みを欠かさなかった」と、ある本で読みました。実を言えば、私は良寛さんと一休さんが大好きです。このような僧侶にはなれそうもありませんが、どれだけ近づけるかが私の課題でもあります。
さてその良寛さんには「戒語」といわれるものがあります。ひそかに自分で戒めとして作り、常々自分に言い聞かせていたそうです。紙に書くのも恥ずかしいと、囲暖炉の灰の上に書いてはそれをながめ、消してはまた書いていたそうです。その「戒語」はたくさんありますが、少し紹介いたします。
一、言葉の多き
一、口の早さ
一、問わず語り
一、さし出口
一、人のもの言いきらぬうちにものを言う
一、よく心得ぬことを人に教える
一、人の話の邪魔をする
一、親切らしくものを言う
一、たやすく約束をする
良寛はどれもこれも自分の姿だと言います。私たちはどうでしょうか。しかし、私たちには「戒語」としての主イエスがおられます。その主イエスは戒めだけでなく、そこから救いも問いかけて下さるのです。