2015年6月2日火曜日




四旬節第3主日 「私が生贄になる」 
          ヨハネ福音書2:13~22   小山 茂

《宮清めはしるし》
 今朝の福音の日課の小見出しは、「神殿から商人を追い出す」です。短くして「宮清」とも言われて、すべての福音書に記されている物語です。しかし、共観福音書のマタイ・マルコ・ルカとヨハネ福音書とでは、記者の伝える順序が違っています。共観福音書ではエルサレム入城の直ぐ後に、「宮清め」が受難物語の最初に置かれています。その直後にマタイは21章で、マルコは11章で、ルカは19章でユダヤ教の指導者たちが主イエスのされた「宮清め」を見聞して、主イエスを殺そうと相談し始めます。
 
 しかし、ヨハネ福音書では最初のしるし「カナの婚礼」の直ぐ後に、主イエスが宣教活動を開始されたその最初に「宮清め」が置かれています。主イエスが自ら生贄になることによって、動物の生贄が必要なくなり、神殿が主イエスの体に置き換えられます。そして主イエスの死と復活が、神殿礼拝の終わりを告げます。 
《イエスの過激さ》
 ユダヤ人の巡礼者たちが、大勢エルサレムに詣でる祭りが近づいています。神殿の礼拝に集まる人々は、遠くから旅行をしてエルサレムに来ます。ですから、動物を連れてくることができず、神殿の礼拝のためにエルサレムで生贄の動物を買い求めます。また、神殿に納めるお金はギリシアやローマの貨幣ではできません。コインには皇帝の顔が刻まれているからです。それゆえ、律法に適った地元のユダヤ貨幣に両替する必要があります。神殿で祭りの礼拝儀式を行うため、動物の売買と両替は必要不可欠な仕組みでした。神殿当局はその商売を容認し、場所を提供して利益を得ていたようです。 
 主イエス一行も過越祭に、エルサレム神殿に上って行かれます。異邦人の庭と呼ばれる外の前庭で、動物を売っている商人、両替商が店を出しています。すると、主イエスは持っていた縄で鞭を作り、生贄(いけにえ)の羊や牛などを全て境内から追い出します。また両替商の金銭をまき散らし、その台をひっくり返します。そして、家畜を買えない貧しい人々に、鳩を売る業者に言われます、「これらをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」主イエスの激しい行動と厳しい言葉に、躊躇される様子が全くうかがえません。私たちが抱いている主イエスの優しさは、どこに行ってしまったのでしょうか。
 ヨハネ福音書の主イエスは宣教を始めたばかりで、人々はこの方が海の物とも山の物とも未だ分かりません。三十歳位の男性が突然現れて、境内にいる商人や両替商の商いを邪魔しました。弟子たちはその様子を見て、ある詩篇を思い出します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽しているので、あなたを嘲(あざけ)る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています。」《詩篇69:10》弟子たちはその詩篇を、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽す」と要約します。主イエスの神殿に対する熱意が、ご自分を死に追いやると語られ、十字架にかけられることを預言するものです。旧約における神の熱情は、イスラエルの民を愛するあまり、妬(ねた)むほどになられました。弟子たちはこの時、はっきりと分かりませんが、復活された後になって詩篇の言葉から確信します。 
《建てる≠甦る》
 当時の神殿礼拝のため容認されてきた慣行である、生贄動物の販売・他国通貨への両替を、主イエスは廃止しようとされます。神殿で商売する仕組みを、厳しく攻撃されます。旧約のエレミヤ書にも同様なコメントがあります。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしもそう見える、と主は言われる。」《7:11》強盗の巣窟と譬(たと)えられている、ユダヤ人商人と神殿とのもたれ合いは、神の家である神殿を辱(はずか)しめています。主イエスは神殿の権威と礼拝そのものに対して、激しい挑戦状を突きつけます。
 ユダヤ人たちは、主イエスに「宮清め」の根拠を求めます。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか?」主イエスがされた「宮清め」は、受難のしるしなのですが、彼らに未だ分かりません。神殿で行われていた犠牲を献げることは、主イエスの十字架の死という犠牲にとって代わられるからです。さらに、主イエスはユダヤ人たちに過激に言われます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」神殿という言葉の理解が、ユダヤ人たちと主イエスでは全く異なっています。

 その建て直すと訳された元のギリシア語の動詞は、「建てる」と「立ち上がらせる」の二つの意味をもちます。ユダヤ人たちは建物である神殿を建て直すと理解したのです。しかし、主イエスは自らが甦る、つまり復活されると言われたのです。それゆえ、福音書の記者は語ります、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」その神殿は西暦70年にエルサレム陥落の時、ローマ軍により取り壊されました、その後再建
されることはありませんでした。
《しるしを求める信仰》
 ヨハネ福音書には、主イエスがしるしを示される場面が、しばしば登場します。しるしには、どんな意味があるのでしょうか。主イエスがメシアであると分かるための奇跡、自らの栄光を示される奇跡、神の子であると明かされる啓示、などがあります。今朝の福音でユダヤ人たちは、主イエスが過激な行動をとられた、その明らかなしるしを求めました。「宮清め」をされた納得できる理由を、自分たちに説明して欲しかったのです。最近よく不正をしたのではないかと疑われた人が、自らしたことが正当であると釈明することを、「説明責任」を果たすと言われます。まさに、主イエスは前代未聞の「宮清め」をされた、その説明責任をユダヤ人から求められました。 


 しるしを求める信仰は、しるしを見つけるなら信仰します、となってしまう恐れがあります。その反対に、しるしが見つからないなら信じないのです。信じるか信じないかは、しるしがあるかないかにかかってきます。弟子たちの中にも、後に主イエスにしるしを求めたトマスがいます。彼は復活されたイエスに会いますが、お体に釘の跡や、わき腹に槍の跡を見なければ、決して信じられないと言います。主イエスはトマスに、ご自分の体
触れて確かめることを許されます。そして、トマスは信仰を告白します、「わたしの主、わたしの神よ。」主イエスは彼に言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」《20:29》しるしを求める信仰は、しるしに向かう信仰です。ですから、しるしについて主イエスは、「説明責任」をユダヤ人たちにされず、誤解を生む結果になりました。 
 それでも、人々は主イエスがメシアである、そのしるしを見つけようとします。証拠が見つかるなら、信じるかどうか迷ったり、悩んだりすることはありません。また、私たちも主イエスが神と同様のお方である、その資格証明を見せてください、と求めたい誘惑にかられます。それは、自らが信じ切れないことの裏返しかもしれません。主イエスはしるしを見たから信じる、そんな信仰を少しも信用されません。
 
《私が生贄になる》
 主イエスが神殿の境内で生贄の商売を邪魔されたのは、ご自身が生贄になられて、動物の生贄はもはや必要がなくなるからです。主イエスの十字架が、その成就される時にそうなります。父の家である神殿で商売をして、神殿当局と商人が相互に利益を上げる仕組みに、我慢がならなかったのです。その怒りの言葉が、「わたしの父の家を、商売の家にしてはならない」だったのです。実は弟子たちは主イエスのそのお言葉を聞いた時、その意味を正しく理解できていなかったようです。それゆえ、福音書記者ヨハネが語ります、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」主イエスが自ら生贄となられた大きな恵みに、 心から感謝しながら、レント(四旬節)を過ごし、御後を歩んで参りましょう。