主の洗礼日 説教 2015年1月11日 「あなたは私の愛する子」 小山 茂
イザヤ書42:1~7 マルコ福音書1:9~11
《洗礼を受けるイエス》
主イエスが洗礼を受けられる物語は、共観福音書のマタイ・マルコ・ルカに記されています。マルコでは、天が裂けて聖霊が鳩のように降ってくるのを目にするのも、天の声を聞くのも主イエスだけにできたと読めます。新共同訳に「天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、ご覧になった」とあります。「御自分に」と訳されている言葉を、ギリシア語本文から直訳するなら「彼の上に」となります。ヨハネから洗礼を受けるために来た人々には、鳩のような聖霊と天の声は隠されていたのです。父なる神と子なるイエスの間で、聖霊と力による洗礼がイエスを油注がれた者(つまり王)としたのです。
ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」です。本来罪の赦しを必要としないお方イエスが、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を受けられます。洗礼を受けた多くの人々と一緒に、主イエスが罪人たちの中に御自身を置かれるためです。それによって、罪の赦しを必要とする人々と、主イエスが同じ場におられます。このように私たちは洗礼によって、主イエスと結ばれているのです。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声は、旧約における預言に基づいています。そのひとつは詩編2:7「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」それは即位する王に対する、神からの声です。もうひとつは今朝の初めの日課イザヤ42:1「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」「神の僕」とされる主イエスが、諸国の民のため地上の真理を明らかにする者として任命されました。その御声は父と子の間柄において、人々に秘密裏のうちに送られたものです。受洗された主イエスがどなたなのか、周りの人々は全く気づかなかったことでしょう。
《ヨハネが授ける洗礼》
洗礼者ヨハネは、主イエスに洗礼を授ける前こう言いました。「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」《1:7~8》ですから、主イエスこそが洗礼を授けるのに相応しいお方であって、ヨハネが主イエスに洗礼を授けることに戸惑ったのでしょう。でも、マルコ福音書はそのことについてひと言も触れていません。主イエスの洗礼は私たちと同じ罪人の一人となって、この世に来られるため必要なことでした。神と等しいお方がヨハネから洗礼を受けて、私たちと同じ罪人の一人にあえて身を置かれました。
主イエスが受けたもうひとつの洗礼によっても、罪人の一人となることが明らかにされます。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスにこのように願い出ます。「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」主イエスは二人に問われます。「あなたがたは、自分が何をねがっているのか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」《10:38》この洗礼とは、十字架上での死を指しています。ヨルダン川で洗礼を受けられ、罪の赦しを願う人々と共におられるためです。そして、主イエスはご自分の身を献げられ、人々の罪を負って、十字架への道を歩み出されます。
《教籍簿に記される》
洗礼を受けた人の名が、教籍簿に列記されています。言ってみれば教会員の戸籍、キリスト者の名簿です。信仰告白をして、洗礼を受けて、イエス・キリストの子とされた方々です。ここに鹿児島教会と阿久根教会の教籍簿があります。最近記入された記録は、尾原守人兄の12月28日の受洗です。松本誠義兄の堅信礼も1月4日付けで記載が済んでいます。
鹿児島に赴任して、何度も両教会の教籍簿を見てきました。最初は多くの方の名前とお顔が結びつきませんでした。何度も見ていると教会の群れが見えてきました。その記載内容は、お名前・生年月日から始まり、受洗年月日、牧師・教保など、結婚されると配偶者、当時の住所や職業など、個人史も載っています。その方の地上での生涯が、教籍簿の中に見えてきます。また、阿久根と鹿児島の両方に記載されている方もいます。
先日天に召された松本裕子姉は、初めに鹿児島教会に記録があります。1983年10月30日に落合成光先生より洗礼を受け、1988年3月27日に落合先生の司式で大策兄と結婚され、1988年4月1日に阿久根教会へ転籍されました。また、松本大策兄は、1979年12月23日に水俣教会で野田藤男先生より洗礼を受け、1985年3月3日に鹿児島教会へ転入され、1988年4月1日に阿久根教会に転籍されました。また、東山義夫兄は鹿児島教会で1963年12月22日に佐藤邦宏先生より洗礼を受け《教保は森田武久兄》、1965年12月8日に阿久根教会に転籍されています。
教籍簿と言うと、旧約聖書にある「命の書」を想い起します。ダニエル書に次のように記されています。「その時、大天使長ミカエルが立つ。・・・その時まで、苦難が続く・・・しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。」《12:1》命の書に記されて、神の民に加えられ、永遠の生命が約束されます。新約聖書においては、信仰告白をして洗礼を受け、教籍簿に記載されて神の子とされるのです。
《キリストを着る》
私たちは洗礼を受けて、正式に主イエスの仲間とされます。そして、主イエスは、求道者の方も洗礼へと招いておられます。私の好きな聖句に、ガラテヤ書3:26~27がありますが、まさに洗礼に与かった者へのメッセージに聞こえます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」洗礼により、私たちはキリストに属する者とされ、キリストを「着ている」者にされます。信仰を与えられた者が、洗礼を受けるのであって、信仰と洗礼は表裏一体です。バプテスト教会の洗礼は、全身を水の中に浸します。信仰者が水の中に沈んだ時、まるで自分たちの衣服を脱ぎ、再び水から上がった時、新たな衣服を着ているようです。新たに着せられたものが、キリストの上着です。キリストが私たちの内に留まってくださるのです。洗礼を受けた者はキリストを身にまとい、キリストから促される生き方へ方向を転換されます。
キリストを着るとは、ゴルフコンペの優勝者がクラブから送られる、ジャケットに袖を通す、勝者を称えるイメージに重なります。グリーン・ジャケット(緑の上着)は、アメリカのマスターズゴルフトーナメントで優勝した選手に贈られる緑色のジャケットです。そのゴルフクラブの会員のみが着用できるジャケットとして知られ、そのトーナメントを優勝した者には名誉会員の称号が与えられ、会員の証であるグリーンジャケットも与えられます。優勝者は受け取ったその場でグリーンジャケットに袖を通し、ゴルフクラブのメンバーとして、その大会に毎年招かれる権利が与えられます。そのゴルフクラブという共同体は、キリスト者の群れのようではありませんか。トーナメント優勝者のグリーンジャケットより、主イエスのジャケットの方がキリスト者にとって、遥かに価値あるものです。なぜなら、御国に招かれて着続けられる上着だからです。教会員には、主イエスを着ることが許されているからです。
洗礼を受けた時、主イエスは天からの声を聞きました、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」それは、初めの日課である旧約イザヤ42:1の成就となります。それは「主の僕の歌」と呼ばれ、次のように歌われます。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」その彼こそが喜び迎える者であり、新約のイエス・キリストの出現を預言したものと言えるでしょう。さらに、イザヤ63:19でも神の介入を求めます、「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」天を裂いて届けられる、聖霊の降下を私たちは請い求めます。そして、私たちもあなたの愛する子の一人として加えてください。