『細川ガラシャについて』 小山 茂
十年ほど前に大阪にあるカトリック玉造教会で、二つの白い彫像を見ました。大聖堂前広場の両端にある高山右近と細川ガラシャ夫人の石像です。キリシタン大名と細川忠興の妻である玉子、二人は日本における初期のキリスト者として生きた人でした。その玉造教会の西北には、かつて細川家の屋敷があったそうです。2月中旬に熊本で教区の集まりがあり、3時間程時間の余裕がありました。ホテルのガイドブックを見て、立田自然公園に細川ガラシャ夫人の墓があると知り行ってみました。熊本大学の裏手、細川家の菩提寺泰勝寺跡がその場所でした。「四つ御廟」といって、細川家初代藤孝夫妻と二代目忠興と細川ガラシャ夫人の墓が、4つの屋根のお堂の中にそれぞれありました。細川ガラシャ夫人の墓石には、「秀林院」という名が刻まれていました。どなたかが拓本をとろとして、墓石に直に墨を塗った跡がありました。外側には玉造の屋敷にあった手水鉢で、亡くなる前それを鏡にして身なりを整えたとの説明がありました。
夫の忠興は千利休の弟子であったそうで茶の湯に造詣が深く、オシドリのいる溜池と杉木立に囲まれた苔むした庭「苔園」があり、侘び寂を感じさせる茶室「仰松軒」があった。鬱蒼とした竹林は京都の嵯峨野のようで、曇り空のせいか少し寂しい感じがしました。今は市に寄贈され熊本県指定重要文化財になり、立田自然公園として管理されています。
ご存じかも知れませんが、細川ガラシャは名を玉子といい、織田信長の仲立ちで細川忠興に嫁ぎ、父明智光秀の謀反により別居を余儀なくされました。後に豊臣秀吉の計らいにより、夫と同居を許された屋敷が大阪の玉造〔かつての大阪城内〕にありました。関ヶ原の戦いの直前、東軍に味方する大名を封じるため、石田光成は妻子を人質にとろうとしました。玉子は押しかけてきた大阪方の兵士を拒み、使用人すべてを逃がして、家屋に火を放ち家来に介錯を命じたそうです。その折の辞世の句を、「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」と詠みました。玉子38歳、それは波乱に満ちた生涯でした。悲劇のヒロインとして、幾つもの小説が書かれました。司馬遼太郎や三浦綾子さんも書かれています。細川ガラシャの墓は、大阪や京都にもあるそうですが、熊本にある墓は忠興の亡くなった後に作られたそうです。墓には「秀林院」という名前が記され、教えられなければ細川ガラシャの墓とは気がつきません。墓が熊本にないことを不憫に思い、忠興の隣に作ったものなのでしょう。
ガラシャ夫人の手水鉢
ガラシャ夫人の墓 墓を覆う廟