2017年4月30日日曜日
2017年4月29日土曜日
2017年4月28日金曜日
2017年4月27日木曜日
窓の内側
クレヨン牧師のミニエッセイ
「窓の内側」
金曜日に二年ぶりで、礼拝堂の窓ガラスを清掃しました。毎日そこで祈っているので、汚れているのは知っていました。ところが「今度やろう、今度やろう」と思っているうちに二年が過ぎ去っていきました。なぜ自分は二年もやらなかったのだろうと考えてみました。
「いつでもできる」「誰かがやってくれる」「もうすこしいいか」という思いがあったのです。もし誰かに「汚れている」と、指摘されていたらどうだったでしょうか。「なぜわたしがしなければならないのか」と反発したでしょう。教会を整えることがいかに大切かをわかったのです。
ところが、礼拝堂の窓を拭いても拭いても奇麗になりません。ホースで水をかけても、ブラシでこすっても奇麗にならないのです。なぜなら、本当に汚れていたのは「窓の内側」だったからです。二年分の礼拝堂内側のホコリは大変なものです。
私たちの信仰生活はどうでしょうか。外からは奇麗にみえても、内側にホコリがあるためにかすんでいないでしょうか。主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。
内側にある信仰をさえぎるホコリは、祈りによらなければ取り払うことはできません。もういちどはっきり見えるように祈りましょう。そういう願いをこめて窓ガラスの内側を磨いていたのです。
「窓の内側」
2017年4月26日水曜日
祈り・願い・お願い
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「祈り・願い・お願い」
フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。
パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。
車で走っていますと、楽しいことがたくさんあります。とくに看板に目をひかれます。柳井市のある海岸線には、「このあたり美人おらず。わき見運転するべからず」と書いてあります。もっともその下には、「美男子は完全にいない」と落書がありました。思わず微笑んでしまいました。いっぽう、六日市に向かう道では、看板にはっとするようなことがいつも書かれています。たとえば先月は、「ありがとうが、いつのまにやらあたりまえ」と書いてありました。なるほど感謝する心の大切さをいまいちど発見する思いでした。それでは今月は何と書かれてあったか。こうです。「子は親の言うことはしないが、親のするようにする」です。
パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。
2017年4月25日火曜日
もっと弱くなれ
クレヨン牧師のミニエッセイ
「もっと弱くなれ」
一度は読んでみたいと思っていた作家の一人に、吉川英治がいます。父の書斎に彼の本を見つけたのは小学生の頃でした。しかし、なかなか読む機会にぶつかりませんでした。
ところが最近になって、書店で彼の文庫を見たときに思わず買ってしまったのです。いろいろと伏線はあったのですが、いま夢中になって読んでいます。吉川英治著「宮本武蔵」全8巻。なぜ「宮本武蔵」なのかわかりませんが、この小説は面白いだけでなく、精神面での深い洞察が心を打つのです。
「お前は強すぎる。もっと弱くなれ」と、宝蔵院の日観和尚に言われて悩む武蔵。「もっと弱くなれ」のなかに、主イエスの十字架が偲ばれてなりません。
私もまだまだ駆け出し牧師。キリスト教の強さばかりを考えてきました。しかし、信仰とは強いことなのでしょうか。勝って勝って勝ちまくることなのでしょうか。「もっと弱くなりなさい」との主イエスの言葉が聞こえてくるのはなぜでしょうか。たぶん、「弱くなってあなたのすべてを私にまかせなさい」と十字架の主は言われているのでしょう。
「もっと弱くなれ」
2017年4月24日月曜日
友と呼んでくださる
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「友と呼んでくださる」
ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ
テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。
ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。
日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。
イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。
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