「出会いの存在」
2016年12月29日木曜日
出会いの存在
クレヨン牧師のミニエッセイ
「出会いの存在」
マカオに住んでいる信友(親友)が、水晶を送ってくれました。気功の本を読んでいて、水晶のことがよく書かれてあるので少し興味を持っていたところでした。そのうちに電話でもして送ってもらおうと考えていたら突然届いたのでした。なんでも聞いてみると、「たぶん水晶を送ってくれというだろうから、一年前に買ってあったんだよ」といわれました。
自分のことをよく知っている人の存在は、恐ろしくもあり、安心もします。何を考え、何をしようとしているのか、良くわかってくれている存在。その存在は適切なアドバイスをくれる存在です、また助けてくれる存在でもあります。
私と彼との出会いについて考えるとき、キリストがその間におられたことは実感できます。たった一年間の神学校での出会いでしたが、そのころよく信仰について語り合ったことを覚えています。真剣にキリストについて語り合った中だからこそ、その後も真剣に向き合う存在となれたのだと思います。
「出会いの存在」
2016年12月28日水曜日
光を迎えて
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
クリスマスおめでとうございます。この世の光としてお生まれになったイエス様のことを覚えます。そして、光がこの世にこられたので、私たちの人生もこのように明るい朝を迎えることができるようになったのです。今朝の礼拝の参加された皆さんにはこの世の光としておられるイエス様が実感できるのではないでしょうか。ただとても寒いですが。
ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。
クリスマスはもともと冬至でした。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときで12月22日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。
イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。
2016年12月27日火曜日
祈りは対話
クレヨン牧師のミニエッセイ
「祈りは対話」
とってもきのユダヤジョークをおひとつ。
お祈り
母親「ママたちは、今夜お客様で忙しいけど、ベットに入る前に、ちゃんとお祈りしなくちゃいけませんよ」
娘「はい、ママ」
翌朝のこと。
母親「昨日の夜は、ちゃんとお祈りした?」
娘「ええ、ママ。ひざまついて、いつものようにお祈りしようとしたんだけれど、その時ね、神様はいつもと同じお祈りに飽き飽きしちゃってるじゃないかしらってひらめいたの。それでベットに入ってから、神様に『三匹の子豚』のお話しをしてあげたの」
実はこの話、お祈りの本質を伝えているかもしれません。お祈りの本質はやっぱり対話だとおもうのですが。
「祈りは対話」
2016年12月26日月曜日
2016年感謝を持って
阿久根ルター君の朝のみ言葉
ルカ 2:29 主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
クリスマス主日が終わると、教会も1年のまとめに入ります。今年1年はみなさんにとってどのような時でしたか?喜びも悲しみも、楽しみも試練も様々なことがおこったことでしょう。しかし、それは私たちの人生の一部です、毎日変わる人生の出来事に中で変わらないものをみつけています。それは神様です。そして神様から与えられる信仰です。この信仰をもって1年を振り返ります。
幼子イエスをメシアと告白するシメオン賛歌で、クリスマスの出来事はクライマックスを迎えます。シメオンは幼子イエスを見たとき、イザヤ書の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」という預言の成就を見ました。神様の言葉が実現したことを見たシメオンは「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌うことができました。神様による約束は必ず実現することを知ったからです。
京都の清水寺に、大西良慶という貫主がおられました。良慶貫主が書かれた本の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟ができた時」という言葉があります。100歳を超えての法話で語られたものです。良慶さんとして親しまれた老和尚の含蓄のある言葉に感銘を受けました。「ほっといたかて死によるんやから、死をおそれない」。すでに悟りを開かれていたのでしょう。なんだかシメオンと通じるものを感じました。
2016年も仕事納めがちかづきました。今年1年を振り返り、神様からの多くの恵みと導きがあったことに感謝したいと思います。私たちの働きは、神様の働きの中の一部分にしかすぎません。しかし、その一部分でも各自が誠実に関わって1年の終わりを迎えることができます。シメオンはいいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」今日1日はそのことを覚えて感謝のうちに1年の納めをしたいと思います。
2016年12月25日日曜日
2016クリスマスおめでとう
クリスマスおめでとうございます。今年も御子の誕生を迎えることができました。今年は4月に熊本地震があり、いつもとは違ったクリスマスを迎えました。しかし私たちには違ったクリスマスでも、神様にとっては同じクリスマス。神様は共におられることには変わりないクリスマスです。
2016年は「恐れ」を知らされた年でした。熊本地震で地の基が揺り動かされる「恐れ」を覚えました。私たちの生活は、なにげない生活です。そのなにげない生活など一瞬にして吹き飛ばされてしまうのです。わずかな幸せさえ、突然の出来事にそして一歩間違うと、わかなくも消え去るという経験をしたのです。今年私たちは「恐れ」を経験しました。しかし、「恐れ」の経験は、同時に「神様との出会い」の経験でもあるのです。
クリスマスの出来事は、すべて「恐れ」に対する、信頼と従順のうえに成り立っています。信頼の上に立った人間の、神様に対する従順が、神様のひとり子を人間に迎えるという奇跡を起こしたのです。この奇跡のゆえに私たちもインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ぶことができます。私たちはつねに「恐れ」のなかにあって、神様と出会うのです。「恐れ」の中で、神様の救いはいつまでも私たちと共にいてくださいと祈るのです。《神は我々と共に》この喜ばしい知らせは、神様への「恐れ」を知った者のみが、信頼と従順のゆえに告白できる信仰の宣言なのです。
私たちはいろいろな状況に立ちつつ、神様を迎えています。仮設住宅で、半壊した自宅で、新しく住み始めたみなし仮設アパートで。しかし、それがどのような場所であっても神様が共にいてくださる場所はあります。神様のみ言葉を信頼して受け取るときに奇跡はおこります。その奇跡にこそ希望があるのです。クリスマスおめでとう。
2016年12月24日土曜日
2016年12月23日金曜日
きままな休日
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