「イエス様の御臨在」
2017年4月6日木曜日
イエス様のご臨在
クレヨン牧師のミニエッセイ
「イエス様の御臨在」
北海道留萌のキリスト教団が出している、「電話による聖書メッセージ」という小冊子をいただきました。電話に三分間のメッセージを入れておくと、誰でも自由に聞くことができるという伝道方法です。私の雑文よりも大変な伝道で、毎週つくるれることに感動したしました。
その小冊子の中に、ドイツ人の神父さんが、十九年の留萌での仕事を終え転勤される時の話しがでていました。ある人が「留萌での伝道で一番恵まれたのは何ですか」と聞きました。しばらく考えて神父さんは答えました。「そうですね。吹雪の時に三時間も車で走って、やっと集会の場所につき、雪を除いて、部屋のストーブに火を付けて待っていましたが一人もこなかった時です。私は何のために日本に来たのか。そしてこの留萌に・・・。とても淋しくなり、空しく感じました。その後、ハッとしました。ここに来たのは自分からでなく、キリストによって遣わされたのだ。リアルにイエス様の御臨在を感じました」と。
この言葉に涙がでてきました。まったくその通りだからです。アーメン。
「イエス様の御臨在」
2017年4月5日水曜日
ゆとり・いい・加減で
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「ゆとり・いい・加減で」
マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。
「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにしたそうです。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計が飛ぶように売れているそうです。
イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。しかし、本当にそうかなと思います。イエス様が何も持っていくなというとき、それは神様にすべてを委ねなさいということだと思います。それが出来ないから燃え尽きてしまいます。
賀来周一先生が信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して紹介されていました。先生は「いい・加減」のすすめと題してこの問題を取り上げておられました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「時間をかけてよい」というおまじないを自分にかけてあげればいいのです。
イエス様も弟子たちの一生懸命にたいして「しばらく休みなさい」といわれました。「休んでいいのだよ」というメッセージをくださるのです。心の休みを持ちつつ与えられた仕事をしましょう。燃え尽きないように。あなたが燃え尽きると、隣の人にも火は移りますから。
2017年4月4日火曜日
自由の中の
クレヨン牧師のミニエッセイ
「自由の中の不自由」
いつからかセキセイインコを飼っています。といっても本当の飼い主は隣りの教会の牧師でした。じつは今年の春の北海道転勤にともない我が家にやってきたのです。
先日、このセキセイインコをただなんとなくながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外にこぼしていたのです。数分後こんどはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。
オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
主イエスは正しさだけを招かれたのではなく、罪をも招かれたのです。自分の罪を認めつつ正しさの中に生きることができるでしょうか。主イエスと共にあるならばできると信じています。
「自由の中の不自由」
2017年4月3日月曜日
もう少し
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「もう少し」
マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない
ある時、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。奥さんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ない」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは娘でした。その頃1歳、「痛いね」という言葉を覚えた娘は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。一番近いが一番遠いことにもなるなと思いました。
イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。もう少しなのですが、このもう少しが永遠でもあります。
事務局にいる時、ビル清掃のおばちゃんとの会話を楽しんでいました。いつも朝5時から働いているおばちゃんからたくさん学ぶことが多かったのです。とにかく毎朝、人が通る前までにきれいにしておくため、いつも時間外にきてくださっているのです。そのおばちゃんが「神様のクレヨン3」を読んだ感想を毎日教えてくれます。ある日のおばちゃんの言葉「あの本の内容は10%のうち、8%しか書いてないね。残りの2%は自分で考えるように書かれてある。この2%が神様との関係では大切なんよね」と。
イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。「遠くない」「もう少し」とは自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある。しかしそれを生きるためには「もう少し」を考えねばなりません。それは私たちの職場でも生活でも同じです。「もう少し」とは何かをいつも考えながら、今日も一日を生きていきましょうね。
2017年4月2日日曜日
2017年4月1日土曜日
気ままな土曜日・焼きそば
いまや大江教会と言えば~焼きそばです。
大きな鉄板で焼くときは、幸せを感じます。
事あるごとに大江教会は焼きそばをふるまってきました。
そして味も落ち着いてきました。
一度食べにきませんか~ソースはもちろん広島オタフクソースです。
大きな鉄板で焼くときは、幸せを感じます。
事あるごとに大江教会は焼きそばをふるまってきました。
そして味も落ち着いてきました。
一度食べにきませんか~ソースはもちろん広島オタフクソースです。
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