「一日を大切に」
2017年3月7日火曜日
一日を大切に
クレヨン牧師のミニエッセイ
「一日を大切に」
牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。
さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。三十二歳と半年の時で、ザ~っと計算そても「一一八00日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の娘では「一九0五日」ですが・・・。
いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできなものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。
益田教会からの帰り道で鹿野を通りました。いま新緑がもっとも素晴らしい季節です。いつもなら車の中から眺めておわりですが、車を降りてみました。すると太陽に輝く新緑とウグイスのさえずり、蛙の鳴き声、小川のせせらぎが聞こえてきました。生かされていることを実感したのです。
神様の前に立つ一日を大切にしたい。
「一日を大切に」
2017年3月6日月曜日
完璧・正しさ・おまかせ
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「完璧・正しい・おまかせ」
マタイ1:19 夫ヨセフは正しい人であった
クリスマスの出来事にしか出てこないのが、マリアの夫ヨセフです。仕事は大工でした。それ以外のことはまったくわかりません。しかし聖書は「正しい人であった」と述べています。当時、婚約した女性は妻とほぼ同じ法的責任がありました。ヨセフが律法を守るのであれば、マリアは石打ちの刑でした。彼はマリアを守るために婚約解消をしようと思ったのです。彼の正しさは律法において完璧であるという正しさではなく、神様の前に正しい人でした。
アメリカで看護師として働く信徒さんに会いました。病院にはいろいろな国の方がこられるそうです。その患者さんの中で、一番扱いにくい患者さんは「完璧主義」を持っている宗教の女性信者だそうです。一番扱いやすいのは、その宗教の男性信者だというのです。つまり奥様の完璧主義に付き合っている夫は常に相手のことを考えるからということでした。 こうあらねばならないという信仰は、やはりどこかでうまくいかなくなると思います。自分が中心になっていく危険をもっているのです。
クリスマスの記事の中で、夫ヨセフは「正しい人であった」とあります。彼は律法に対して完璧な人ではありませんでした。神様のもとで、やるべきことをきちんとする信仰者だった。そして最後は神様にお任せすることができる信仰ゆえに「正しい人」と呼ばれたのでしょう。私たちに与えられている働きも、完璧ではなく、正しく行っていきましょう。やることはきちんとして、最後は神様にお任せするという仕事の仕方を求めています。私たちは完璧主義ではなく、神様の働きを正しく行っていく責任をまかせられています。
2017年3月5日日曜日
2017年3月4日土曜日
きままな休日・牧師の弁当
2017年3月3日金曜日
2017年3月2日木曜日
共に祈る恵み
クレヨン牧師のミニエッセイ
「共に祈る恵み」
子どもを叱っていると、自分がむなしくなってきます。「人格の未熟な親ほどよく子どもを叱る」の言葉を思い出すのです。
最近、娘・華美がイライラして、いつも怒ってばかりいました。きっと親に十分遊んでもらっていないのが不満となっているのだと思いました。そこで一緒に遊ぶことにしたのです。それでもなおイライラはとまらず、とうとう同じように怒ってしまいました。はじめは「いい加減にしろ」からはじまり、だんだんエスカレートしていきました。手はでないものの、グジグジとなってきます。この辺で終わればと思いつつ、歯止めがきかないのです。そして、「叱っている自分はどうなんだ」という心の声を聞いて悲しくなったのです。
「このままではいけない。しかしどうすればいいのか」と迷いつつ、礼拝堂へいこうと思ったのです。華美も反省しているらしく、礼拝堂へ行こうと言えばついてきました。そして二人でざんげの祈りをしたのです。華美は、「神様。イライラしてごめんなさい。ゆるしてください」と祈りました。私は自分の未熟さを祈りました。
主イエスを中心に向かい合うことができるのは、本当に感謝です。これからもいろいろな衝突があるでしょうが、共に祈ることができる。それが私たちの信仰の宝だと言えます。
「共に祈る恵み」
2017年3月1日水曜日
神様の働きに参与する
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「神様の働きに参与する」
ヨハネ17:21 すべての人を一つにしてください
ヨハネによる福音書でイエス様は、最後の晩餐の時弟子たちにむけて決別説教をされました。十字架の出来事の前にどうしても弟子たちに語らねばならないことを話されたのです。その後、イエス様は祈られました。父と栄光が顕れるようにと祈られるのです。その中で、父と子と弟子たちが一つになるようにと祈られました。
十字架の受難の前に弟子たちに「ひとつに」という言葉を何回も語られたように、祈りでも繰り返されたのです。
掃除のことで面白いことを聞きました。ひとつの部屋を掃除する上手な方法があるというものです。それは毎日5分ずつ場所を決めてやることだそうです。月曜は床、火曜は台所、水曜は・・・と。これにて一週間で部屋は奇麗に保てるといいます。このやり方は大きな仕事も、自分でする仕事も同じような気がします。教会の仕事は、皆が役割を分担しながら一つのことをやり遂げていくことです。自分の中でも分担しながらやっていくことができるのです。その基本は「神様の働き」を協力・共働していくことだといえます。それぞれが賜物を持つよってすべてが整えられる。これが一つになる教会だといえます。
イエス様は「すべての人を一つにしてください」と祈られています。しかし、どうやったら一つになれるのでしょうか。それは「基本・起点」をきめることです。私たちは「神様の働き」というこの一点さえ見失わなければ一つになれます。それは教会の中でも、家族の中でも同じことです。「神様の働きに参与する」という原点を確認することです。
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