「新しい試み」
2017年11月30日木曜日
「新しい試み」
クレヨン牧師のミニエッセイ
「新しい試み」
教会は様々な新しい試みができる教会です。隣の教会との連立教会としてだけでなく、牧師を神様の働きために送り出す教会でもあります。そのことは特別伝道にいった先々の教会でいつも話題になるのです。「留守礼拝はどうされているのですか」と。
これまでいろんな留守礼拝を守ってきました。ビデオ礼拝、テープ礼拝、信徒証言礼拝、祈祷礼拝。そしていま行っているのが「朗読説教礼拝」です。これまでいろいろな試みをしてきましたが、この「朗読説教礼拝」がいまのところ一番よい方法だと思われます。
説教とは神様の言葉です。それは牧師を通して、そして朗読奉仕をしてくださる方々を通して語られる福音です。そう考えれば、それがビデオでも、テープでも同じです。しかし、そこに人の存在があるかないかは大きな違いです。朗読される方を神様は用いて祝福を与えられるのです。
これから牧師数が減少していきます。そのとき教会の試みが全体教会の益となればいいと思います。ご意見をください。
「新しい試み」
2017年11月29日水曜日
「種から育つ」
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「種から育つ」
1ペトロ 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。
ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。
ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。
ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。
2017年11月28日火曜日
「神様のベット」
クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様のベット」
幼子の寝顔はやっぱり平和だなとしみじみ思います。
先日、愛美と昼寝をすることになりました。同じ布団に入り枕を並べて、しかも手を握って昼寝をせねばならなくなったのです。たぶん三番目がで来たことで甘えん坊になったのでしょう。
さて、横にいて違うことを考えていました。「人間が眠る瞬間とはどのような時だろうか」とふと思ったのです。そこで愛美が眠る瞬間を見てやろうと薄目を開けて眺めていました。ところが眺めているうちに、私の方が寝てしまったのです。あまりにも平安に満たされた顔をしていたので、私の方が先に安心しきってしまったようです。
「平安」とはいったい何でしょうか。それは幼子の寝顔そのものだといえます。私たちの寝顔もそうかもしれません。なぜならば、本当に安心しきってないと充分に眠ることができないからです。幼子たちが私たちに教えてくれる平安とは、すべてを委ねきった安心感でしょう。
私たちはどこにいても、いかなる状況でも神様の懐という一番安心できるベットを持っています。それだけでも幸せです。
「神様のベット」
2017年11月27日月曜日
「今日何を行う」
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「今日何を行う」
1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。
パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。
ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。
パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。
2017年11月26日日曜日
2017年11月25日土曜日
2017年11月24日金曜日
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