2017年1月31日火曜日

小さな事に

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ  19:17 良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。

どんな小さな教会でも、伝統の継承というものがあります。伝統といえばおおげさですが、なにかしら伝わっているものがあるのです。ある時に特別伝道で招かれた教会では、バザーのうどんの作り方に伝統がありました。それは、特定された湯飲みで三杯の醤油をそそぎ、だしは鰹節と鯵ぶし、それに昆布はある一定の地域ものを使用し割合がこまかく指定してあるのだそうです。そして最後には真っ赤に焼いた火箸をだしにつっこみ一周させる。ただし、半周でジューといわなくなったら焼き方がたりない。かならず一周させることといった伝統が残っていました。なんとも微笑ましい限りです。その教会が守ってきたよい伝統は、どんな小さなものでも受け継がれて新しい人々へと伝えられていきます。ただ伝えられるだけでなく、信仰とともに伝えられていくのです。

ムナ(タラント)のたとえです。タラントとはタレント、才能・能力のことです。ある主人が10人の僕に1人1ムナ(お金の単位)を渡して旅にでます。留守のあいだこのお金で商売をしなさいと命令します。ある人は1ムナで10ムナを儲けます。ある人は5ムナにします。しかし、一人だけ布に包んでしまっておいた人がいました。減らすのが恐ろしくてなにもしなかったのです。この僕には主人は厳しく全財産を没収します。儲けた僕に対する言葉が今日の聖書の言葉です。

幼稚園の年少時の夏の思い出です。あるとき道で35円を拾いました。それを健軍教会のそばにあった交番に友達3人と届けたのです。おまわりさんは大変ほめてくれて、アイスクリームとアンパンをご馳走してくれました。そして「これからもどんな小さなお金も大切にしてね」と頭をなでてくれました。いまでも良い思いでとなっています。「どんな小さな」という言葉と、「大切に」がいまでも耳に残っています。

イエス様は「お前はごく小さな事に忠実だったから」と言われました。私たちが与えられている働きはどんな小さなものでも神様の働きです。私たちは神様からこれを任されて与えられています。私たちのことを信頼して任せてくださっている。「ごく小さな事」にも忠実でいましょう。

2017年1月30日月曜日

風とは

クレヨン牧師のミニエッセイ
「風とは・・・」
 
 山頭火の句は学べば学ぶほど深いなあと思います。今年になって毎日のように山頭火の句を味わっていますが、表現のしようもない重さを感じてただ唖然とするばかりです。今日は次の句に出会いました。
     けふもいちにち風をあるいてきた 山頭火
  山頭火にとって「風」とは何でしょうか。「風」はもともと実態はありません。しかし、山頭火はこれを自然現象としてではなく、精神的な面からも把握しようとしたのではないでしょうか。
  私たちキリスト者は「風」を「聖霊」として把握しようとします。きわめて精神的なものとして受け取るのです。山頭火は「風」におなじようなものを感じたのだと思います。彼の日記には「風の、己の、その声を聴く」と書いています。私たちには聖霊の声が聴こえているだろうか。

2017年1月28日土曜日

気ままな休日

上海に牧師会で旅行した時のフルコースです。
   といっても、これは現代風の中華フルコースです。
   なにか新しさを感じました。やっぱり上海ですよね。まるでイタリアンのような中華。
   料理も進化していくのですね!
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2017年1月27日金曜日

無駄にはならず

阿久根ルター君の朝のみ言葉

2コリ  6:1 神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

市ヶ谷会館風呂場への給湯配管がいきなり破裂した時があります。天井から滝のようにお湯が流れ、みるみる床が洪水状態となり救援に呼び出されました。いってみるとあたり一面が雨漏り状態。「バケツはないか」と探しまわっていました。ふと、「大きな洗面器が15個位印刷室にあった」ことを思い出しました。その洗面器が大いに役にたったのです。この洗面器は10年前からあったもので、青年修養会で1度だけ洗足礼拝で使用されたものです。それ以来、1回も使用されず「ほったらかし」にしてあったのです。無駄なものと思っていましたが、そうではなかったのです。せっかくの恵みを無駄にしているのは私たちなのだと思いました。

パウロは「神の協力者としてあなたがたに勧めます」とのべています。この「神の協力者」という表現は「神と共に働きながら」というのが直訳です。私たちは神の働きの中で、たくさんの恵みをいただいています。しかし感謝が少ないのは、その恵みに気がつかず受けとっていないからでしょう。「無駄」とは、せっかく与えられている恵みを受け取らずにいること。その恵みを「ほったらかし」にしていることです。

ある歌手の歌詞で、ドキッとさせることがあります。たとえば、「ずっと いつまでも このままでいれたらいいな 前の人 一緒にいすぎて 愛が生活に負けたから」というのがあります。これはどんな意味があるのかと考えこんでしまうのです。つまり、その人のメッセージが含まれているのです。またこんなのもあります。「いちばん近くにいてね 束縛したくないの お互いの人生 今は大切にしたいから」。一緒ではなく、いちばん近くにいるのがイエス様かもしれないときこえてきました。その中でも「無駄だと言われることも 寄り道したりすることも 別に自分が納得すれば それでいいんじゃないの」というのもあります。無駄を無駄にしているのは私たちかもしれないと思わされました。

神様が与えてくださったものはすべて恵みです。何一つ無駄なものはありません。無駄にするのは私たち自身ですし、無駄にするから感謝もないのです。今日1日与えられたものはすべて神様からの恵みである。これを覚えながら過ごしましょう。

2017年1月26日木曜日

野鳥の礼拝

クレヨン牧師のミニエッセイ
「野鳥の礼拝」
 
 礼拝堂で毎朝祈っていますと、聖霊を感じることがあります。心が安定して気持ちよくなってきます。そして不思議なことに出会うことがあります。
 
 先週の水曜日に祈っていたときのことです。礼拝堂の窓ガラスをトントンと叩く音が聞こえてきました。一瞬ドキッとしました。誰だろうとみてみると、なんと野鳥が窓を叩いていたのです。きっと野鳥も祈っていたのでしょう。
 
 一回だけの偶然かなと思って窓のところへ行ってみますと、毎日来ている様子がわかりました。皆さんも見て下さい。礼拝堂森側の下の窓です。汚れているのではなく、野鳥が毎朝つついたあとなのです。もしかすると何かを訴えているのかもしれません。童話の話みたいですが、この教会がここに存在することの素晴らしさを教えられたようです。
 
 「教会はキリストの体」。野鳥が祈りにきても何も不思議ではありません。不思議なのは、祈らない私たちかもしれませんね。

2017年1月25日水曜日

内面

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 6:43 悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない

古代ギリシャの医者・哲学者であったヒポクラテスの言葉に「知りながら害をなすな」というものがあります。これを「プロの責任と倫理」と捉えた人がいます。牧師、医者、弁護士、その他どんな職業でも、顧客に対して必ずよい結果を出せるという保証はありません。最善をつくすことしかできないのです。しかし、「知りながら害をなさない」と、信じていただくしかないのです。どんな職業であれ、「知りながら害をなすな」が職務倫理であり社会的な責任なのです。

イエス様は「実によって木を知る」という、たとえ話をされました。木はそれがどんな木であるかは、その実によってわかると言われたのです。「茨からいちじくは採れない」「野ばらからぶどうは集められない」。そこから、良い人は良いものを出し、悪い人は悪いものを出すと指摘されたのです。問題となるのは、外側に出てきたものではありません。その人の内面がどうであるかです。内なるものは必ず外にでてきます。だからこそ、見えない内面が大切なのです。

先日テレビで「日本一気持ちのいいカラオケ」と題して、あるお店が紹介されてありました。どうして「気持ちのいいカラオケ」なのかといえば、ストレスを発散できるからなのです。しかし、日本一というからには、その店にしかないものがあるのです。それは、その店に飾ってあるものは何でも壊していいのだそうです。例えば、花瓶、お皿、時計、壷などの骨董品、テーブル、コップなどなど。つまり、1万円払えば、その店の中のものを破壊してもよいのだそうです。しかも、その店は1年先まで予約で一杯というから驚きました。私は恐ろしくなりました。このままこんなことが受け入れられていったとすれば、人をどれだけ殴ってもいいカラオケとか、お年寄りをいじめていいカラオケなどが出現するかもしれないと思ったのです。お金を払えば、自分のストレス解消のために何でもやっていいということはありません。むしろ、そのストレスの原因を見つけて処理するほうがいいと思うのですが。自分の内面を見つめたいと思います。

イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われました。私たち自身がどうであるかを考えねばなりません。私たちはこの職場に、悪い実を結ぶように集められているわけでなく、良い実を結ぶように集められています。