2019年6月7日金曜日

2019年6月6日木曜日

「天国へのパスポート」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「天国へのパスポート」
 
 パスポートの更新のために、旅券センターに行きました。いまではこの手続きも便利になりました。パスポートも小さくなり、有効期限も5年と10年を選べるようになりました。これもまた便利になった一つでもあります。
 
 さて、旅券センターで面白い出来事にぶつかりました。あるお年寄りが初めてパスポートを作りにこられました。受付の方は親切で、「どうせつくられるなら10年のパスポートにされたらいかがですか」と聞かれました。すると、「私は80歳ですよ。あと10年も生きられると思うかね」と言われました。思わず笑ってしまいましたが、それもそうだなとも思いました。
 
 あとどれくらい生きていけるかと思うことがあります。しかしそのような時は、「この世では」あとどれくらいと考えるようにしています。わたしたちには神様のもとにある人生もあるからです。
 
 私たちキリスト者は神様のもとへいくための、パスポートを与えられています。これは更新など必要はありません。有効期限などないパスポートなのです。しかし、ついついこのパスポートがどこかに行ってしまうことがあります。せっかく持っているのに、タンスの隅っこにでもおいやったような時があります。天国へのパスポートの存在をしっかり考え、感謝し、つねにながめていたいものです。

2019年6月5日水曜日

「せわしく・・・」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「せわしく・・・」

ルカ  10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。

ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。

 たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。

イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。

2019年6月4日火曜日

「宣教の視点をどこに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宣教の視点をどこに」
 
 オルガンコンサートも無事に終えることができました。広島教会のオルガンの素晴らしさを再確認できました。ほんとうにいろんな音がでるのだと思いました。作ってくださった CDを何回も聞いていると、ますますその素晴らしさに圧倒されるばかりです。礼拝でもご奉仕くださり、礼拝でのオルガンの弾き方などを直接学ぶことができました。これはほんとうに恵まれたことでした。
 
 Hクウォーゼ音楽監督(ドイツ・ブラウンシュバイク大聖堂)は本当に気さくな方でした。歩きながらいろいろなことを教えて下さったのです。私が一番印象深く聞いたのは、教会での宣教のお話しでした。いかに教会へ人を呼び戻すかという話題でした。そのために監督は、子どものための音楽学校を作られたそうです。まず子どもから教会へ呼び戻そうという計画を立てられたそうです。子どもたちには、父母がいる、祖父祖母がいる、叔父叔母がいる。その人たちを呼び戻すことができると確信されたそうです。
 
 どこに宣教の視点を置くべきか、それは大変な課題だと思います。しかし、いま自分に何ができるかを考えて、宣教計画を立てることの大切を学んだようでした。いまそれがどのように実を結びつつあるのかをもう少し聞ければよかったのですが。
 
 さて、それでは私たちの教会はどこに視点を置くべきでしょうか。なにができるのでしょうか。すでに始まっている宣教の業をもう一度再点検して方向を定める時期にきているように感じます。みなさんのご意見を大歓迎いたします。

2019年6月3日月曜日

「イエス様を身近に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「イエス様を身近に」

マタイ 28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

これまで「ここにいてくれてありがとう」という言葉を何度か聞きました。私にとってこの言葉は、被災地だけでなく、パレスチナ、タイの津波、インドネシアのときも聞きました。苦しい状況の中にあって、何をしてよいかわからないことがあります。また、苦難や悲劇の中にある人達に何をすればいいのかわからないときもあります。そんなとき「ここにいてくれてありがとう」という言葉は、救援活動をする者にとって慰めです。なにもできないかもしれないが、共にいることはできる。まず共にいることが一番の救援活動なのだと思います。しかし、共にいるということほど難しいものはありません。自分も他者も理解し、受け入れていかねばならないからです。

マタイによる福音書では、イエス様と弟子たちとの別れの場所はガリラヤの山になっています。この山は「山上の説教」が語られた山を思い出させます。そこは、み言葉の福音が語られ、人々が救われ、癒された場所です。この最後の場面で、イエス様が遺された言葉は「弟子の派遣」でした。み言葉の宣教こそが派遣の中心なのです。そして、最後の最後の言葉は「共にいる」というみ言葉でした。これは、弟子たちのすべての働きの中に、イエス様は共にいてくださるということです。

徳山教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学びました。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。ある日曜日の朝6時ごろのことでした。長女が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまりにもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。しかし同時に「お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と言う声も聞こえてきました。私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。

イエス様は、天にあげられる時「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。どんなことが起こっても、どんな状況になろうとも、イエス様は共にいてくださると約束してくださったのです。だからこそ、どこにいてもイエス様に出会うことができます。どんな苦しい状況の中でもイエス様にも出会うのです。そこにおられるイエス様と出会うことで、私たちも癒されていくのです。

2019年6月2日日曜日

きままな休日・峰ポリスのカフェで

さすがアメリカですね~
ミネアポリスのカフェでオシャレなランチでした。
サラダが独特で、、、

2019年6月1日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞお越しください