2019年4月7日日曜日

きままな休日・熊本「福来亭」のお母さん水餃子

熊本水前寺駅そばに「福来亭」があります。
中国のコックさんご夫妻のお店です。
これがものすごく美味しい!さらに安い!
お母さんの手作り水餃子は絶品です!

2019年4月6日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひお越しください。

2019年4月5日金曜日

木瓜の花

阿久根教会の木瓜の花が見頃です。
ほのぼのとしていいですね~

2019年4月4日木曜日

「キリストの最高の知恵」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「キリストの最高の知恵」
 
 ある本の中で、「母親の最高の知恵」という文章を読みました。
 
 「子どもが道ばたで転ぶ。アメリカの母親はどうするか。じっと見ている。助けに行かない。自分で立ち上がるのを待つ。独立心を植え付けさせためだ。
 
 日本の母親はとんで行く。助け起こす。『かわいそう、かわいそう』とほこりを払う。その瞬間は母子ともにハッピーだ。でも、将来を考えると暗い。
 
 最高の知恵を持っているのは、アフリカの母親だ。子どもが倒れる。どうするか。すばやく、自分も同じようにバタッと倒れる。子どもはびっくりする。『あ、お母さんも倒れたッ』母親は一人で立ち上がる。それを見て、子どもは自分で立ち上がることを学ぶ。これが母親の最高の知恵だろう。」
 
 アフリカの生活の厳しさが、そのような知恵になるのでしょうか。子育ても時と場所と環境によって様々に変化していくものなのでしょう。
 
 さて、この文章を読みながら、それではキリストはどれだろうと考えていました。結論は「これ全部だ」と思います。キリストは私たちにとって、一番必要なことはご存知です。あるときは厳しく、ある時は優しく、本当に必要なときは私のために倒れてくださるのです。しかし、それは立ち上がることを教えてくださるためです。キリストと共にあるとき、人はきっと立ち上がることができるからです。

2019年4月3日水曜日

「壁のうちに平和を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「壁のうちに平和を」

詩篇  122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。

被災地で救援活動していたころ、避難所にもよく出入りをさせていただきました。私たちがいったころは避難所生活も1ケ月を過ぎた頃でしたから、各家庭の場所が整理されプライバシーが守られていました。しかし、このプライバシーをどうやって作ったかといえば、隣りとの境界線に壁を作ることからだったそうです。実はこの壁が避難所生活のなかで大きな問題となったとも聞きました。壁が出来たばっかりに「共に」ということがなくなったのかもしれないと。プライバシーとは何か、それを守るとは何かを考えさせられました。

旧約聖書・詩篇にある「神殿にもうでる歌」です。内容は、エルサレムを称える歌です。エルサレム巡礼に出発するときの喜び。困難な巡礼の旅を終えてエルサレムに入城した喜び。巡礼者たちが平和を願うように促され、それに応えて歌うというものです。その中で、壁のうちに平和がと唱えています。

事務局にいたころ、毎朝掃除のおばちゃんと少しだけ話しをしました。ある日のテーマは謙虚になるということでした。おばちゃんはいまでも高校の校長先生の訓示を覚えているそうです。それは「自分がつくった壁から覗くと、人は壁の向こう側の人を見下すことになる。自分の後ろにはもっと高い壁があることを覚えておきなさい」という話だったそうです。おばちゃんは、その後ろの壁から見ておられるのが神様だと思うと言っていました。人はすぐ壁をつくってしまうけれど、壁の中で平安に生きるには、謙虚になることだと。そのように生きてきたら壁もなくなってまわりが平和にきたと。朝から考えさせられる言葉でした。

私たちは人との関係ですぐに壁をつくります。自分を壁の中において、そとを覗きながら生きています。そのとき、人を見降ろしていることに気がつきません。壁のうちにある自分に平和があるとき、壁はなくなり人を見降ろしたりしないですむのだと思います。そのためには、いつも見守ってくださっている神様に気がつくことが必要です。もともと自分の後ろに高い壁などなく、神様がともにいてくださるだけなのですが。

2019年4月2日火曜日

「分けると増える」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「分けると増える」
 
 イスラエルに行ったとき、パンの奇跡の教会がありました。皆さんもよくご存知の「五千人の給食」の奇跡がおこった場所に立っているとか。ガリラヤ湖畔ののどかな場所だったなと思い出します。しかし、どうやったら五千人が「満腹」になるのだろうかと考えてながらそこを後にしました。聖書のは「食べたすべてのこのは満腹した」とあります。この満腹という言葉がひっかかっていたのです。
 
 ところが先週、ある一冊の料理本の中に書かれてあった言葉に「これだ」というものを見つけだしたのです。それは・・・「たとえばユズでも、たくさんあれば一人一箇ずつユズ釜としてご馳走すればよい。たった一箇を何十人、何百人となれば、皮をミジン切りにして、ふろふき大根の味噌の上に色どりと香りとしてそえれば、皆で同じようにちょうだいできる」。
 
 主イエスはあのときパンを感謝して裂き、弟子達にわたして配らせたとありました。つまり、分けられたのです。一人一箇ではなく分けられた。たった一箇でも、分ければ増えるのです。主イエスの恵は分けられるとき増えていくのです。そして、それが「満腹」つまり「満たされる」ことへとつながっていくのだと思います。
 
 私たちに主イエスから頂いている恵も、多くの方々と分け合うときのこそ満たされていくのではないでしょうか。しかも、みな同じように。
 

2019年4月1日月曜日

「真理の道」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「真理の道」

 ヨハネ  4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。

 教会を離れる原因の第1位は「人間関係」だそうです。教会内の人間関係につまずいたということだそうです。しかし、ちょっと考えるとそのおかしさに気が付きます。神様との関係はどうなのだろうと。イエス様との関係はどうか。それは個人でもつながっておれるという意見のようです。本当にそうでしょうか。同じ信仰持つ者の交わりが教会です。神様との関係もこの交わりの中にあると言えます。人間関係につまずいたという人の意見はなにか違うものを感じます。

 イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。

私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感した道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かう道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。私たちにとって救いの道はイエス様です。イエス様そのものが道であり、真理であり、私たちはその道の上を自分の十字架を背負って歩いています。この道は確実に救いへとつながっています。だからこそ安心して歩いていけるのです。

 イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。