「痛みと共に」
2017年3月30日木曜日
痛みと共に
クレヨン牧師のミニエッセイ
「痛みと共に」
教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学んでいます。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。
先週の日曜日の朝6時ごろのことでした。長女・華美が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまにりもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。ところが、先週は柳井教会の担当でしたから、車を運転しながらある声を聴いたのです。「華美ちゃんは、お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と。
私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。
「痛みと共に」
2017年3月29日水曜日
ユーモアが生かすこと
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「ユーモアが生かすこと」
ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか
野村克也楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりですね。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かな。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。
本日の清書は、復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度もよんでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。また神様のユーモアがあるように思います。先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。
会議でいつも天国ジョークを話される方がおられます。ある教派の総主事なのですが。その話をきっかけに場がなごみ、会議がスムースにいくことが多いように思います。先日のジョークはこれでした。「ある教会に若いカップルが訪れ、結婚式の申し込みをしました。しかし、結婚式の前日に事故で天国に召されてしまったのです。二人は天国の門番であるペトロに『地上では明日が結婚式でした。天国ではめとることも嫁ぐこともないと聖書に書いてあるので、天国に入る前にここで結婚式をあげさせてください』と願いました。ペトロも2人のことを思い了解しました。ペトロは『どこの教会で結婚式をするつもりだったか』と聞きました。『ルーテル教会です』(どこの教会でもいい)とこたえました。ペトロは天国の中にいるルーテル教会の牧師をここに連れてくる約束をし、探しにいきました。しかし長い時間か帰ってきませんでした。かなりたったころペトロは門のところにきていいました。『大変残念ですが、ここに牧師はひとりもいない』と答えましたとさ」 。一つのユーモアが場を和ませます。
イエス様の大きさは、計り知ることができません。その大きさはペトロに「愛しているか」というみ言葉に集約されているように思います。その大きさに触れたペトロは「悲しくなった」のです。こんなに自分を愛しておられる方がいてくださるという胸を打たれる悲しさだったのでしょう。
2017年3月28日火曜日
ありのままで
クレヨン牧師のミニエッセイ
「ありのままで」
カウンセリングの本に次のような話が書いてありました。
外国のある学校の話です。その学校はとても評判の悪い学校でした。卒業生の中にはまともなものはあまりいず、警察のお世話になるものばかりでした。あるときそこの学校の先生は、驚くべきひどいことをしました。それは卒業生名簿を持ってきて予想を書き込んだのです。「こいつは泥棒。こいつは殺人犯。こいつは詐欺師」と。よその子の分まで将来の予想を書き込み、あたるかどうか同僚と賭けたのだそうです。
十年後、その先生が追跡調査をしました。すると一つのクラスに限ってことごとく予想が外れてみんな立派な人になっていました。その学校始まって依頼のことでした。追跡調査の結果そのクラスの全員から、一人の女の先生の名前が聞けました。しかし、その先生は教師としての能力がないということで一年で止めさせられた先生だったのです。
別に普通の先生でした。特に教育理論もない先生でした。今は老人ホームに入っているその先生からは特別なことは聞けませんでした。しかし、ただひとつ違うことは、卒業名簿をながめながら、「ああこの子は好きだったわ。この娘はどうしているだろう。好きだった。この子はやんちゃで好きだった」と涙を流していたのでした。
人はありのままで愛されると変わるのです。キリストもありのままの私を愛されるのです。
「ありのままで」
2017年3月27日月曜日
手に愛が宿る
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「手には愛が宿る」
イザヤ25:10 主の御手はこの山の上にある。
上前淳一郎氏の『読むクスリ』の中で、「若者の食事が洋食にかたよりすぎているのは、母親に原因がある」と書いてありました。すなわち、「オカアサンヤスメ」だそうです。なんだそれはと思う方へ。オムレツ、カレ-ライス、アイスクリ-ム、サンドイッチ、ヤキメシ、スパゲッティ、メダマヤキ。どれもインスタントでできる手抜き料理で、子供が喜ぶものだそうです。もうひとつ、「ハハキトク」といのもあります。ハンバ-グ、ハムエッグ、ギョウザ、ト-スト、クリ-ムス-プ。これはなぜいけないと思いますか。答えは噛まなくても飲み込めるものばかりだということです。それで顎の力が弱い若者が増えたのだそうです。皮肉なことにこの現象を発見したのはお母さんたち自身だったのですが。ある料理家はこれを手抜き料理といっていました。
救いを待ち望んでいた民に預言ざれた言葉の一つです。「御手はこの山の上に」。神様がここにいて守ってくださる。神様はここにおられるという確信があります。「御手」という言葉にひかれます。私たちにも手が与えられているからです。神様の御手とわたしの手。なにか不思議なつながりをいつも感じています。
ある看護婦さんがおられました。末期医療の病室で、反応がわずかしかない患者さんの体を毎日拭いておられました。いつもの仕事なので何も考えずに。しかしふと自分の母のことを思い出したそうです。母が末期病棟にいたとき、自分は同じように機械的にはできなかった。私の大切な人がここに生きていると思って体を拭いていたことを思い出したそうです。それから、すべての患者さんを母と思い、接してこられたそうです。ある日一人の患者さんが感謝をのべられた言葉は、「あなたの手には愛がある」でした。
私たちはここで仕事をします。機械的に仕事をするために神様から集められているわけではありません。神様から呼び集められた私たちの仕事は「この手に神様の愛が宿る」仕事です。今日も手を眺めるときがあれば、この手に神様の愛が宿っていることをおぼえましょう。
2017年3月26日日曜日
2017年3月25日土曜日
きままな休日・2種類カレー
1皿で2度おいしい!実は右がパキスタンカレー、左がスリランカカレーです。
YMCAのユースの集いでご馳走になりました。どちらも特徴のあるカレーでした。
なるほどカレーの文化なんだ。
ちなみに、具はチキンとシーフードでした。さすがに豚はなかったですね。
2017年3月24日金曜日
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