「悪魔の悪魔」
2017年3月16日木曜日
悪魔の悪魔
クレヨン牧師のミニエッセイ
「悪魔の悪魔」
「波」六月号を読んでいましたら、次のような言葉に出会いました。
「世の中には優しさという言葉が流行っているようだが、悪を生きたことのない人には優しさなんて表現できないのではないか」。これはある文学賞を受賞された作家の言葉です。
「悪を生きる」とはどんなことでしょうか。私は善でありたいし、人からもそうみられたいと思います。もしも「悪」と言われたらきっと落ち込むでしょう。しかし、その落ち込みが優しさを生むのかもしれません。
ある牧師が、「悪魔に勝つには、悪魔にとっての悪魔にならないと勝てない」と言われました。なるほどだなと関心したのです。なぜなら主イエスは悪魔にとっての大悪魔だったからです。
主イエスは聖書時代の律法学者たちからは「悪を生きた」方でした。しかし、それが故に律法学者たちに見捨てられた人々に「優しさ」の表現ができる方だったのです。
「自分が善だ、自分は正義だ」と言い切る人たちには優しさは感じられません。優しさを持つと自分だけではいきていけないからです。悪に生きるとは、弱さに生きることかもしれません。
「悪魔の悪魔」
2017年3月15日水曜日
心遣い
阿久根ルター君の朝のみ言葉
フィリピ 4:10 あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。
お菓子を食べていたら、煎餅袋の裏に『日本食の礼儀』というものが書いてありました。茶碗の持ち方や、お箸の置き方、目の置きどころなど詳しく書いてあるのです。私は食前・食中・食後の箸の置き方など初めて知りました。また箸の使い方の悪い例はたくさんあって驚きました。
お箸をなめるのは「ねぶり箸」、同じお菜を続けて食べる「移り箸」、なにを食べようかうろうろするのは「迷い箸」、遠くのお菜に差し出すのは「及び箸」、吸い物のお椀の中に実を探すのは「探り箸」、お料理を箸で突く「突き箸」、お茶碗の中で御飯をかためる「かため箸」。これはみんなやってはいけないことなのです。あらためていわれると、この礼儀は作った方への感謝から出てきているように思えます。食べる側の心遣いかもしれません。
フィリピの信徒への手紙は、パウロが教会からの贈り物にたいする感謝の言葉をしたためた手紙です。この中で「心遣い」ということばがあります。聖書の中に「心遣い」という言葉はあまりありません。もしかするとこの箇所だけかもしれません。この「心遣い」とは何を意味するのでしょうか。パウロは「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」といいます。苦難を共にしてくれたということに対して「心遣い」と言っています。本当に苦しい時、共にいて、共にその痛みを負ってくれたことを「心遣い」と言っています。
テレビで葬儀屋さんの特集をしていました。その中で、ある社長さんの言葉に感銘を受けました。その言葉は「結婚式に必要なものは気遣いでよい。しかし、葬儀に必要なものは心遣いです」というものです。この「気遣い」と「心遣い」の違いが私たちにはわかっているかと問われているようでした。その葬儀屋さんの映像をみていると、出棺のとき喪主の奥様に一つの紙袋を渡していました。その中にはおにぎりが3個と「お疲れがでませんように」と手紙が添えてありました。「心遣い」とはこのようなものかと心を打たれました。わたしたちの教会も「心遣い」を大切にしていきたいと思います。教会生活の中でおこる出来事の中に、ぜひ「主にある心遣い」を持ちたいと願います。
パウロは苦難を共にしてくれたことを「心遣い」といいました。その人と共に歩むとき、その苦しみを共に受け取ることで「心遣い」ができるのです。そのようなホスピタリティを教会はもとめられています。それができる教会にあるために、今日も御言葉を聞き、祈り、仕えてまいりましょう。
2017年3月14日火曜日
賛成でも反対でも
クレヨン牧師のミニエッセイ
「賛成でも反対でも」
出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、「神様のクレヨン」が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。
先週の宣教協議会に出席し、教会の会議のあり方を考えています。主イエスを中心とした会議にはみえなかったからです。話し合いという名の責め立てあいのようでした。私はそこにいたたまれず、帰ってきました。批判するなとはいいません。しかし、そのやり方に問題を感じます。宣教協議会は法廷闘争を準備した話し合いではないはずです。あくまでも、宣教の役に立つ話し合いのはずだと思うのです。
批判するのは簡単なことです。しかし、そこからどうやって前向きに進めていくか、いや決断して中止するかなのです。ある信徒の方が次のようにいわれました。「賛成でも反対でも、それをどうやって宣教に役立たせるかという視点で考えたい」。もっともだと思います。
「賛成でも反対でも」
2017年3月13日月曜日
愛がなければ
阿久根ルター君の朝のみ言葉
1コリント 13:2 預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
「自分はなんでも持っている」と言う人がいました。何でも持っているなら幸せですねと答えました。すると、物はなんでも持っているし、これ以上いらない。しかし、本当に必要な物を持っているのか疑問だというのです。特に何不自由なく生活できる財産はあるけれど、さみしいという相談でした。イエス様は「受けるより与える者は幸い」と教えてくださいました。たくさんの物を、人々に分け与えた時、はじめて本当に必要な物が見つかるかもしれません。全てを与えつくして何が残るか。残ったものが、神様から与えられた確かな恵みだと言えます。
本日の聖書は、新約聖書の中でも有名な「愛の賛歌」の1節です。パウロはコリントの人々に、「最高の道を教えます」と言っています。その冒頭に「愛がなければ一切は無に等しい」というのです。愛がなければ一切は空しく、何の価値もなく、無益であるとまで言っています。しかしその「愛」は「神の愛」であることが引き続き語られていきます。私たちは「愛」と言うとき、自分の中にそれを見つけようとします。しかし、私たちの中に見つけようとしてもみつかりません。「愛」は神様のもの。神様か毎日与えられるものだからです。その愛を自分の中に留めておくことのむずかしさを思います。
出張などでビジネスホテルにとまります。最近ではいろいろなタイプのホテルがあります。泊る方が自分の目的や状況によって選ぶことができます。泊るだけでいいと思えば、それなりのサービスで値段が安いほうがいいです。またゆっくりしたいと思えば、少し金額はあがってもきめ細やかなサービスがあった方がうれしいものです。しかし、どのホテルも宿泊客の確保に必死なのだなと思います。最近ではサービスという点では変わりないからです。それではどこでホテルを判断するか。それはフロントの印象です。先週宿泊したホテルのフロントは最初から「注意事項のみ」の説明でした。挨拶も、気持もなく、ここには2度とくることはないかなと思いました。言葉の中に心を見つけられなかったからです。
パウロは「愛がなければ、無に等しい」と教えています。どんなに賜物があっても、才能があっても、大切なことは中心に何があるかです。パウロは「愛」といいます。しかしこの「愛」は神様の愛であるアガペーです。すべては神様が中心になければ無に等しいというのです。
2017年3月12日日曜日
2017年3月11日土曜日
2017年3月8日水曜日
噛み合わない面接
阿久根ルター君の朝のみ言葉
「噛み合わない面接」
マルコ15:2 「それはあなたが言っていることです」
イエス様はローマ総督ピラトから尋問を受けておられます。ピラトからの尋問は「あなたはユダヤ人の王であるか」というものでした。その尋問でピラトが何を聞きたかったかわかりません。ピラトはこのあと、イエス様の沈黙に関心を向けています。その沈黙に彼は驚いているのです。このイエス様の沈黙の意味を理解できずに裁判はすすんでいったのです。結局最後までイエス様とピラトは「問い」と「答え」が噛み合いませんでした。
毎年4月の初めに教職志願神学生の面接があります。事務局長のとき何回か面接にださせていただきました。実は、面接のたびに思うことがありました。それは「質問」と「答え」が噛み合わないということです。「この学生は何を言っているのか」と聞く側が推測することがあります。この場合、質問に答えてないというというのが原因だと思います。ある時の面接で、教授がたまりかねて「問はこれだから、これに答えることがあなたに求められていること」と言われた。それでも答えが噛み合わないということは、問が自分の問になっていないからなのでしょう。しかし、もう一つの問題もあります。質問する方にも力量がいるということです。何を質問するか、この質問で何を聞きたいのか。はじめから答えを設定して質問するのが質問ではないと言えます。いま何をここで聞きたいかを考えることも力量の一つです。
イエス様はピラトの質問「お前がユダヤ人の王なのか」という質問に対して、「それはあなたが言っていることです」と答えられた。ピラトは自分が何を質問しているのかわからなかったのでしょう。自分では適切な問と思っていてもそうでないことがあります。十字架上のイエスと対峙するとき、死の苦しみの中におられるイエス様にあなたは何を問うでしょうか。それでも「ユダヤ人の王か」と問い続けるでしょうか。十字架のイエス様に問うことばを今日は探してみたいと思います。
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