2016年11月7日月曜日

朝のみ言葉161107


 
マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2016年11月6日日曜日

牧師室から


 

 教会の「つながり」を考えています。教会はそこに集う方々のつながりを考えると、こんなに豊かな交わりはありません。しかし、それが生かされているかといえば、ほとんど生かされてないのが現実です。これからの教会は、この「つながり」を大切に考えてそれを生かしていくことが宣教になると思います。

 「つながり」といえば、最近あるネットショップで本を購入しました。ところがそのサイトではつい買いすぎてしまいます。サイトの一言が影響しています。「よく一緒に購入されている商品」「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という言葉です。これを次々にみていくと欲しい本がたくさん出て来るのです。それらをまとめて買ってしまうのです。うまくできているなと思います。

 これを教会の宣教に生かせないかなと考えました。「礼拝に参加した人はこちらも参加しています」と。食事だったり、カフェでの行事だったり。そこでまた、「このようなプログラムに参加されています」という誘いがあったり。それには教会にどれだけのプログラムがあるかでしょう。これまでも、聖書を学ぶ会はありましたが、それ以上のプログラムを用意できていたか。ところが現在の教会は違います。多種多様のプログラムがあります。集会室をCaféとして開放し、礼拝堂が地域の方々に用いられています。先週は英会話ハロウィンパーティがあり、落語がありました。水彩画、フラワーアレンジ、ハーモニカ、ギター、コーラス。毎日違ったプログラムが教会で行われています。いまの教会なら「礼拝にでた人はこんなプログラムにも参加しています」と言えます。これが最終的はキリストとつながっていくことになると信じています。

2016年11月5日土曜日


阿久根ルター君の朝のみ言葉

ヨハネ  9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。いろいろと思いめぐらせてください。思いめぐらせていくうちに、私たちが勝手に抱いている神様は、なんと小さい神様だったかが分かってきます。

 私たちは神様を抱くのではなく、神様から抱かれているのです。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。この私をそのまま抱いてくださることがおできになるのです。

イエス様は生まれつき目の見えない人を癒されました。このことで問題がおこりました。癒された日が安息日だったからです。イエス様に癒された人はファリサイ派の人たちから尋問をうけることになりました。その尋問は癒された人を苦しめていきます。最終的には罪あるモノとしかみなされず、追いこまれていきました。そんなときにイエス様に再会し、信仰の告白へと導かれました。イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ」と、自分を神であると示されたのです。

ドストエフスキーの言葉に「誰かを愛するということは、神が意図したようにその人を見ること」というものがあります。たとえば家族の誰かを愛すると言う時、その人を一人の個人としてみて、自分との違いを認めることだということです。たいていは相手を見る時、「こうあるべきだ」という見方をします。自分の考えに押し込めようとするものです。しかし、それでは相手を人とみているのでは、モノとしてみているにすぎません。人を人とみることが、愛することの基本だといえます。

イエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言われました。イエス様を見るとき、私たちは愛されていることを知ります。イエス様が私たちを人として見ておられることがわかるのです。だからこそ、この男もイエス様を人として見ることが出来ました。お互い人として見ることから愛するということがはじまっていきます。

2016年11月4日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
「奇跡は身近に」
 
 神様の奇跡というのは、何か遠い出来事のように思います。しかし、案外身近なところで起こっているものだと実感することができました。
 
 礼拝堂の聖壇が狭いとは、常々感じていることでした。このことのために祈りっていたのです。なにせ、拡張費用は40万かかることがわかっていましたので、祈るしかなかったのです。すると驚くべきことに、5月、6月に結婚式が7組も与えられたのです。一つの結婚式につき、教会へは5万の献金があります。すると全部で35万となります。驚きました。
 
 しかも実を言いますと、「神様、ここには5万円あります」と祈ってきたのです。多く与えられるのでなく、少なくでもなくです。神様の御心が聖壇の拡張をよしとしてくださったのです。神様は祈りを聞いて下さったのです。ぜひこのことを感謝したいと思います。この教会・皆さんを神様は本当に大切に思っておられるのがよくわかりました。それにどうやって応えていくのかが課題です。祈りましょう。そして神様の御心を聞き取ってまいりましょう。かならず神様の御心はしめされるはずです。

2016年11月2日水曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2016年11月1日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様はどこに」
 
 小さいとき、わが家の娘建ちは外に遊びにいって帰ってくると、まずお父さんを探します。ここまでは愛情溢れる家族にみえますが、その探し方がなんともいえないのです。なぜなら、娘たちはドアを開けるなり、「お父さん、お父さん」と叫びながら、一目さんに寝室に飛び込んでいくのです。それが何回見ていても同じなのです。これは何をかいわんやです。
 
 いつもどこにお父さんがいるかを知っている娘たちは幸せかもしれません。わが家の場合は恥ずかしい限りですが・・・。私たちも、神様はいったいどこにおられるのかと探すことがあります。見つからないといっては嘆いてみたり、怒ってみたりしています。
 
 神様がどこにおられるか知るには、一目さんに御言葉に行く必要があります。ルターは、「キリストについてまったく考えずに二日を過ごすとき、わたしの心はなえ、いきいきと働かなくなります」と言いました。神様は生きた御言葉の中におられます。