宣教の力を
クレヨン牧師のミニエッセイ
「宣教の力を信じる」
神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。
「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。
神様は私たちの信仰によって、底知れぬ「宣教の力」を与えておられます。この教会に遣わされて七年目がやってきました。牧師としてこの六年間「宣教の力」をどれほど信じてきたかを振り返ったとき、信じてなかったことを告白せねばなりません。
この教会にとって今の状態は、あの放蕩息子のように神様の財産を食いつぶしているようなものかもしれません。一人一人の信徒・牧師が神様の十字架の前にひれ伏して、赦しをいただかねばなりません。今年「宣教する教会」は、十字架の前にひれ伏すことから始めます。(