「わたしの愛する子」 マタイ福音書3:13~17 小山 茂
《洗礼式を思い起こす》
皆さんは、ご自分が受洗した時のことを憶えておられますか?どこの教会で、いつ洗礼を受けたか?司式をされた牧師は、教保は誰であったか?そんなことを直ぐに思い出せる方は、余り多くないかもしれません。実は私もその思い出せないひとりです。受洗した月日のことを確認する時、祝いに贈られた本の裏表紙を見ます。そこには筆で、『祝御受洗、小山茂様、昭和58年4月3日、日本福音ルーテル武蔵野教会』と書かれています。自らの受洗を振り返ると、今年のイースターで受洗から31年、様々なことを感慨深く思い起こします。
洗礼といえば、洗礼盤が欠かせません。ルターの足跡をたどる旅で訪れた、ドイツのアイスレーベンに、ルターが嬰児洗礼を受けた教会があり、大きな石の洗礼盤がありました。ルターが洗礼を受けた石造りの洗礼盤に触れ、そのどっしりとした感触を憶えています。ルターは生まれた翌日洗礼を受けました、まるで産湯に使えるような大きな洗礼盤でした。その日は1483年11月10日ですから、530年前のものが残されていました。現代でも一人ひとりが自らの洗礼を思い起こすため、会堂の入り口に洗礼盤を置いて礼拝を守る教会があるそうです。また、あるカトリック教会では会堂入り口に聖水をおいて、祈りに来る方がその水に触れることができる所もあります。
鹿児島教会の聖壇の左側にも、洗礼盤が置かれています。木で造られた八角形の支柱の上に、やはり八角形の洗礼盤が乗って、蓋の最上部に十字架が立っています。献堂された1960年と同じ年に寄贈されたもので、その支注にはこう記されています、『佐伯眞理受洗記念、昭和35年8月28日』お父さまの佐伯孝一兄が、御子息の受洗を記念して、寄贈してくださったものです。この年以降に受洗された方は、その洗礼盤を用いて洗礼式が行われました。
鹿児島教会の教籍簿を見ますと、阿久根教会のお二人の名前を見つけました。東山義夫兄が佐藤邦宏先生から1963年12月22日に、松本(旧姓渕上)裕子姉が落合成光先生から1983年10月30日に、その洗礼盤を使って受洗されています。洗礼はただ一度だけのことであり、自分の洗礼を思い起こすのは、キリスト者にとって大切なことです。ことに小児洗礼は、御本人が覚えていないことがあります。どなたかが受洗の祝いに、洗礼式の様子を撮影して、記念に写真を贈ります。私も清重先生の初孫さんの洗礼式を、母教会で撮影したことがありました。その折には、清重御一家が教保として7人並ばれ、なかなか壮観な洗礼式になりました。
《イエスの洗礼》
今朝の福音にある洗礼物語は、ヨハネが主イエスに悔い改めの洗礼をします。救い主イエスは、悔い改めるべき罪を犯してはいません。それなのになぜ、悔い改めるための洗礼を、受けに来られたのでしょうか?主イエスの洗礼は、他の人々と全く違っています。そのことをヨハネが自ら認めています。神と等しいお方でありながら、主イエスは人の罪を担う「苦難の僕」として、十字架への道を歩まれました。ですから、ご自分のためというより、人々の救いのために、受肉されて一人の人間となられました。かつてアダムは罪によって天を閉ざしましたが、キリストは私たちを義とされることにより、天を再び開かれました。神と人との間に立って、和解をされるためでした。ヨハネによる洗礼を通して、主イエスが人間となるしるしを示され、神は我が子に天から声をかけられました。
主イエスは本来罪のないお方です。そのお方がヨハネから洗礼を受けるため、人々と同じように列に並ばれています。そして主イエスの順番が巡って、彼の目の前に来られます。ヨハネは知っています、主イエスがどなたであるか。生まれる前それぞれの母親の胎にいた時から、互いに知っていたかもしれません。ヨハネは主イエスを指し示すという、使命を与えられて生まれてきた者です。彼は洗礼を授けることを躊躇して言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られたのですか。」ヨハネは主イエスに洗礼を授けることを躊躇(ためら)い、逆に自分こそあなたから洗礼を受けるべきだと言いました。彼は人々にその理由を、このように語っています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」《3:15》
それでも、主イエスは、「今は止めないで欲しい、正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです」と答えます。正しいことと訳されているギリシア語は、『義』という深い意味を持ち、神が人間イエスに求めるもの、成就されるべきことがらです。主イエスは神でありながら、ルターの言った「義人にして同時に罪人」である人間に、自ら進んでなられるのです。その義が成就されるのはヨハネにとっても、主イエス御自身にとってもふさわしい、と言い切られます。なぜなら、父なる神の意思がそこにあるからです。そして、神の霊が主イエスの上に降り、天からの声が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言します。その声は主イエスにだけでなく、洗礼者ヨハネに、洗礼を受けに来た人々にも向けられています。さらに、キリスト教会に集う私たちにも向けられています。
《神が選ばれたイエス》
初めの日課イザヤ42:1「神の僕の歌」は、天の声による主イエスの洗礼物語の源になります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊が置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」さらに詩編2:7も加えたい。「主は私に告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」二つの旧約の御言葉を重ね合わせると、主イエスは神の僕として任命され、その任務遂行のため聖霊が与えられたと読めます。神の意志に従順な子イエスは、父なる神が選ばれた者です。神が選ばれたイエスを公に宣言されて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天からの声がかけられました。主イエスの従順に神が息子へ愛を示され、その愛を基盤にして主イエスは、十字架に向かう強い力が生まれます。そして、自ら進んで十字架に上がられ、私たちの罪を赦してくださいました。
《御言葉に聴くスタート》
今朝の聖書日課に、栗﨑学先生が「洗礼はゴールではなく、スタートである」と語られています。私もこの言葉に賛同します。なぜなら、私も洗礼はゴールではなく、主イエスをより知りたい、そのためにスタートラインに立つ、そんな思いから洗礼を受けたひとりだからです。よく洗礼に至るほどに自分の信仰は深められていない、と洗礼を先に延ばす理由に挙げられる方がおられます。果たしてそうでしょうか?今流行りのキャッチ・コピーではありませんが、「いつですか、今でしょう!」主イエスを信じ、聖書の御言葉に耳を傾け、スタートラインに立てる、それが招きではないでしょうか?
恥ずかしながら、私は牧師とされて5年経ちますが、時折聖書の読み方が足りないと気づいて、自ら赤面することがあります。聖書研究会で分からないことがあると、翌週まで自らの宿題とすることもあります。年齢を重ねていても、牧師としてはまだ新米です。しかし、聖書にある主イエスの御言葉に耳を傾けて、わたしの愛する子と呼ばれたお方に、つき従っていきたいと願っています。信仰と洗礼は、かつて私の決断だと思っていました。しかし、神学校の最初の礼拝で江藤直純校長から説教を聞いた時、ガツンと頭を殴られたような気がしました。ヨハネ福音書15:16の御言葉に気づかされました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」主イエスが私を選ばれたのであり、私が主イエスを選んだ訳ではありません。御言葉から自らの思い上がりを知り、とても恥ずかしくなりました。主の招きに応えていく喜びを、大切にしています。主の招きが皆さまにもあります。ことに洗礼に迷っている方がいらっしゃいましたら、主イエスはあなたも招いておられます。
《祈り》
恵み深い主よ、あなたの大切な独り子を、この世に送られ感謝をいたします。イエス・キリストがヨハネより洗礼を受ける時、天の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえました。主イエスが受肉され、私たちと同じ人間となられ、さらに罪人にまでなられ、私たちの罪を赦されました。私たちが御言葉に耳を傾ける信仰を与え、ひとりひとりに目を留めて養ってください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げをいたします。アーメン
〔2014年1月12日 阿久根教会にて説教〕
〔2014年1月12日 阿久根教会にて説教〕