2017年6月7日水曜日

水一滴から


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「水の一滴から」

箴言 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

暑い日がつづいています。夏だから仕方のないことですが、やっぱり早く涼しくなって欲しいと思います。そんなとき、牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。夏の予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。

箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ1516)。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。

小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。

箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。

2017年6月6日火曜日

いなくては

クレヨン牧師の実のエッセイ

「いなくては・・・」
 
 人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。
 
 一、いなくてはいけない人
 
 二、いた方がいい人
 
 三、いても、いなくてもいい人
 
 四、いない方がいい人
 
 五、死んだ方がいい人
 
 なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。
 
 さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

2017年6月5日月曜日

毅然無礼

阿久根ルター君の朝のみ言葉

慇懃無礼と応答」

箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。

箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。

私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。

2017年6月3日土曜日

きままな休日・石巻はらこ飯

被災地での支援活動のとき気になっていたお店「湖月亭」。
   そのご何度も石巻を訪れては、このお店の「はらこ飯」をいただいています。
   九州育ちの私にとって鮭はごちそう。しかもイクラまで。
   これが釜飯になっている。お刺身もついて安いんだから。
   それよりも、石巻の風土と人の温かさを感じながら食べるはらこ飯はいつだって最高なんです!
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2017年6月1日木曜日

張り紙に

クレヨン牧師のミニエッセイ

「貼り紙に教えられ」
 
 子どもを叱りながら、いつも心に思うことがあります。それは、「なんでこんなにイライラしているのだろう」ということです。普段なら許せることが許せない。止めよう止めなければと思いつつも、エスカレートしてくるのです。そんな時ほどイヤな嫌悪感に打ちのめされるのです。
 
 先週の金曜日でした。いつものように嫌悪感に落ち込む叱り方をしたので、礼拝堂で祈っていました。神様に懺悔をして家に帰りますと扉に手紙があってありました。皆さんはこれを読むことができますか。
 
 解説すると、「おとうさん、このおうちはおこったらはいらないでね」だと思います。私はこの貼り紙をみてなぜか涙がでてきました。ここは牧師館だった。ここは神様の家なんだと実感させられたのです。自分のイライラや、自分中心の怒りがどれだけ人を傷つけるかを教えていただきました。教会・牧師館は神様に聖別された場所です。同じようにみなさんのお宅も神様に聖別された場所です。そこを汚すために社会のいろいろな誘惑が襲ってきます。しかし、そこは聖霊の家なのです。その聖霊の働きがあるからこそ、私たちは守られて生きていくのです。